マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

明治政府はクーデターで始まっている

 ――明治政府の異様

 について、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 なぜ明治政府は異様であったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 明治政府がクーデターで始まっていることと関係があるでしょう。

 

 この辺りの経緯については――

 12月29日の『道草日記』で、以下のように述べています。

 

 ――薩摩藩長州藩の下級武士らと朝廷の公家らが急ぎ話し合って、将軍・徳川慶喜を筆頭とする徳川幕府の関係者をほぼ全て締め出した上で、新たに政権を担う意思を示した。

 

 簡単にいうと、

 ――急ぎ話し合って、クーデターを起こし、徳川幕府の関係者を締め出した。

 ということなのですね。

 

 ポイントは、

 ――明治政府は正々堂々と挑んで政権を勝ち取ったわけではなかった。

 ということです。

 

 例えば、徳川幕府は――

 初代将軍の徳川家康が天下分け目の戦い――関ケ原の戦い――で勝利を収め、衆目の下に政権を勝ち取りました。

 

 明治政府は違うのです。

 衆目の及ばないところで政権を掠め取ったようなところがあります。

 

 当時――

 日本列島は西欧列強の外交圧力にさらされていました。

 

 ――この難局は、徳川幕府では乗り切れない。

 との声が、薩摩藩長州藩の下級武士たち――いわゆる“維新の志士”たち――の間で、日に日に高まっていました。

 

 政体――政治の体制――の刷新の必要性が叫ばれていたのです。

 

 興味深いのは――

 当の徳川幕府までもが――

 その必要性に、部分的にせよ、理解を示していたことです。

 

 それゆえに――

 最後の将軍・徳川慶喜は、朝廷に対し、

 ――大政奉還

 を申し出ます。

 

 ――大政奉還

 については、12月29日の『道草日記』で述べました。

 

 簡単に述べ直すと――

 天皇を戴く朝廷に対し、

 ――初代将軍以来お預かりをしてきた政権をお返ししたい。今後の政体をどのようにするかはご一任をする。

 との申し出でした。

 

 もちろん――

 徳川慶喜以下、本気で政権を返すつもりはなかったと考えられます。

 

 その申し出は――

 当時の朝廷に政権を担う実力がなかったことを十分に見越した上での申し出であったのです。

 

 つまり――

 徳川幕府は、朝廷が、

 ――そんなことをいわずに、引き続き政権を担ってくれ。

 と泣きついてくることを見越していたのですね。

 

 ――どうせ戻ってくる。

 と思っているのに――

 なぜ政権を返したのか―― 

 おそらく、

 ――政体を一から見直すくらいのことをしないと、西欧列強の植民地にされてしまう。

 との危機感が幅広く共有をされていたからです。

 

 “維新の志士”たちに象徴をされる反徳川幕府の勢力はもちろんのこと――

 徳川幕府の首脳陣でさえも、「徳川幕府」という政体には限界を感じていたようなのですね。

 

 政権をいったん返すことで、超急進的な改革を行い、新たな政体へ生まれ変わった上で、引き続き政権を担う――

 そのつもりで、徳川幕府は、あえて、

 ――大政奉還

 に踏み切ったのです。

 

 おそらくは――

 いわゆる、

 ――幕藩体制

 という名の地方分権政治と決別をし――

 その後、明治政府が目指すことになる中央集権体制への移行を本気で目指し始めるつもりでした。

 

 それは、

 ――英断

 といってよかったでしょう。

 

 時の将軍・徳川慶喜は知的能力に頗(すこぶ)る秀でた人物であったと、いわれています。

 そういう人物がトップであったからこそ、可能であった“英断”でした。

 

 が――

 そうした“英断”を無効にするべく、反徳川幕府の勢力は、

 ――死に物狂いの奇計

 を繰り出します。

 

 武力に訴え、朝廷でクーデターを起こし、徳川幕府の“英断”に理解を示しそうな公家たちを一掃することで――

 新たな政体から、徳川慶喜を筆頭とする旧徳川幕府の首脳陣を徹底的に締め出したのです。

 

 さらに――

 旧徳川幕府の中級・下級武士らの挑発も試みます。

 

 徳川幕府の本拠地・江戸で故意に狼藉を働くなどして、旧徳川幕府の中級・下級武士らを怒らせ、首脳陣を突き上げさせることで、反徳川幕府の勢力に対し、徳川幕府側から戦端を開かせるように仕向けたのです。

 いわゆる、

 ――鳥羽・伏見の戦い

 です。

 

 徳川慶喜は、個人技の武術には優れていたようですが、大規模な軍勢の統率には疎かったようです。

 挑発をされた配下の軍勢の暴発を抑えきれなかったと考えられています。

 

 西欧列強の外交圧力にさらされた難局を、

 ――大政奉還

 という政治決断で切り抜けようとしたところ、

 ――鳥羽・伏見の戦い

 という軍事行動を押し付けられ――

 徳川慶喜は、政権の奪回を諦めます。

 

 いとも簡単に諦めた理由は――

 第一には、

 ――日本列島が内戦状態になることを避けたかったから――

 ということが考えられますが、

 ――未経験の軍事行動に訴えて難局を切り抜ける危険は冒したくなかったから――

 ということも、大いにあったでしょう。

 

 当然です。

 最初の将軍・徳川家康は、軍事行動の経験が豊富でした。

 戦乱の世を辛くも生き残った戦国大名です。

 

 が――

 最後の将軍・徳川慶喜は、軍事行動の経験がほぼ皆無です。

 戦乱の世は書物の中の歴史になっていました。

 

 こうして――

 反徳川幕府の勢力はクーデターを成功に導き――

 明治政府が誕生をします。

 

 このような経緯で誕生をした政体ですから、

 ――異様

 であったのは当然といえるのです。

明治政府の異様

 ――明治政府は発足前から集団指導体制であった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――江戸攻略の時点で、すでに集団指導体制であった。

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 このように述べると、

 ――集団指導体制は悪い。

 と主張をしているように思われるかもしれませんが――

 そうではありません。

 

 どんな政体――政治の体制――にとっても――

 集団指導体制への移行は必然です。

 

 徳川幕府を例にとりましょう。

 

 徳川幕府は、徳川家康という絶対的な指導者によって樹立をされた政体です。

 創成期の徳川幕府において、徳川家康は、初代将軍として、あるいは徳川宗家の家長として、

 ――何でも一人で決めた。

 といわれています。

 

 それが――

 三代将軍・徳川家光の頃には、すっかり集団指導体制へ移行をしていたのです。

 

 徳川家光は、

 ――自分では何一つ決めなかったのではないか。

 などといわれたりしています。

 

 以後――

 徳川幕府は、様々な例外時期はあるにせよ、基本的には集団指導体制であったと考えられます。

 

 つまり――

 政体というものは、概して、創成期は超人(カリスマ)指導体制であり、守成期に集団指導体制に移ろっていく傾向にあります。

 

 そして――

 ひとたび政体の存続に危機が訪れると、超人指導体制へ戻っていく――そのような可塑性が見出せるのも普通のことです。

 

 もともと超人指導体制で始まっていれば――

 それへ戻ることに、とくに無理はないのですね。

 

 が――

 明治政府には超人指導体制の時期がありませんでした――初めから集団指導体制であった――

 

 それゆえに、昭和前期になって、

 ――統帥権干犯問題

 が持ち上がった、と――

 僕は考えています。

 

 ――統帥権干犯問題

 については、12月22日の『道草日記』で述べました。

 簡単に述べ直すと、

 ――政治の一部である外交の、そのまた一部である軍事の裁量権者が、政治の裁量権者を脅かす、という問題

 です。

 

 超人指導体制では、ある超人的な指導者が、政治・外交・軍事を一手に引き受けます。

 

 徳川幕府においては、徳川家康が今日の「政治」「外交」「軍事」の概念の全てを実質的に単独で担っていたと考えられます。

 

 一方――

 集団指導体制では、複数の指導者たちが、政治・外交・軍事を手分けして引き受けます。

 

 明治政府においては、内閣総理大臣外務大臣陸軍大臣海軍大臣のほか、参謀総長軍令部総長を始めとする陸軍や海軍の最高幹部らで裁量権の分担をしていました。

 

 もし――

 明治政府が、創成期において、徳川幕府にとっての徳川家康のような、絶対的な指導者を擁していたならば――

 守成期においても、内閣総理大臣外務大臣陸軍大臣海軍大臣の任免権はもちろんのこと、参謀総長軍令部総長の任免権さえも握る制度になっていたはずです。

 

 過去に、政治・外交・軍事を実質的に単独で担っていた人物が一人でも実在をしていれば、

 ――内閣総理大臣が軍の最高幹部らの任免権を握るのは当たり前である。

 と、ほとんどの人々が納得をしたに違いないからです。

 

 が――

 そういう人物が、過去の明治政府には、あいにく誰もいませんでした。

 

 そういう人物に、西郷隆盛なら、なりえたかもしれませんが――

 結果的に、なりませんでした。

 

 よって――

 明治政府――正確には、明治期、大正期、昭和前期の大日本帝国政府――では、昭和前期になって、海軍の最高幹部らから、政権の中枢に対し、

 ――統帥権の侵害である!

 との奇怪な主張が公然と噴き出る事態となったのです。

 

 軍事が外交の一部であり、外交が政治の一部であるのですから――

 常識で考えれば、「統帥権」は内閣総理大臣に帰属をしていたはずです。

 

 が――

 その常識が、明治政府においては、江戸攻略の時点で、すでに曖昧になっていました。 

 

 明治政府が江戸攻略の軍を発したときに――

 おそらくは「統帥権」の概念も、その萌芽くらいは生じていたはずですが――

 

 では――

 それを握っていたのは、はたして誰であったのでしょう?

 

 明治天皇でしょうか。

 有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王でしょうか。

 西郷隆盛でしょうか。

 それとも、他の“維新の志士”たちでしょうか。

 

 その答えは、

 ――形式的に明治天皇が握っていて、一時的に有栖川宮熾仁親王が預かり、実質的には西郷隆盛ら“維新の志士”たちが握っていた。

 ということになるのでしょうか。

 

 いずれにせよ――

 そんな複雑な答えになってしまうこと自体が、そもそも、

 ――異様

 なのです。

 

 ――明治政府の異様

 といってもよいでしょう。

明治政府は発足前から集団指導体制であった

 ――明治政府は発足当初から集団指導体制であったので、政権の所在の明確化に失敗をした。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 裏を返せば――

 発足当初の明治政府が集団指導体制でなければ――つまり、誰か絶対的な指導者が1人いて、その人の監督の下に明治政府の体制が整えられていれば――

 明治政府が政権の所在の明確化に失敗をすることはなかった――

 ということになります。

 

 が――

 不幸にして、そのような指導者が、創成期の明治政府には見当たりませんでした。

 

 明治政府が徳川幕府の本拠地であった江戸に軍を差し向けたときに――

 その軍の指揮権を握っていた人物が、本来ならば、それ以後の明治政府の絶対的な指導者になるのが自然でした。

 

 が――

 その指揮権を握っていた人物が誰であったかという話になると、ややこしくなるのです。

 

 その指揮権を実質的に握っていた人物は西郷隆盛といってよいのですが――

 それとは別に、その指揮権を形式的に握っていた人物がいたものですね。

 

 皇族の有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王です。

 

 まだ徳川幕府が主導権を握っていた頃から徳川幕府に抗う姿勢を鮮明にしたり、明治天皇の信任を得て福岡の地方行政に与ったり、明治天皇の名代として外国を訪ねたりするなど――

 前後の経歴をみると、決して、

 ――お飾り

 の最高司令官ではなかったようです。

 

 が――

 死地を何度も潜り抜けてきた西郷隆盛のような、いわゆる“維新の志士”たちと比べてしまうと――

 どうしても見劣りのする人物でした。

 

 おそらく、

 ――お飾り

 ではなかったのですが――

 “維新の志士”たちの多くは、

 ――お飾り

 とみなしていた可能性があります。

 

 よって――

 有栖川宮熾仁親王が、創成期の明治政府において、絶対的な指導者となる見込みは、ほぼゼロでした。

 

 もし、西郷隆盛が、江戸攻略の軍の最高司令官に、実質的にだけでなく、形式的にも任じられていたら――

 その後の明治政府は西郷隆盛を中心に運営をされたことでしょう。

 

 何しろ、西郷隆盛は“維新の志士”たちから絶大な人望がありました。

 西郷隆盛であれば、明治天皇の権威の下、絶対的な指導者として、明治政府の体制構築に邁進をすることが許されたはずです。

 

 が――

 そのような野心が、西郷隆盛本人になかったようです。

 

 そもそも、西郷隆盛には政治への関心がなく――

 また、政治家としての手腕についても、同時代人からは疑念を持たれていたようです。

 

 人望は絶大であったものの、政権の首班として政治に深く関われるような人物ではなかったのですね。

 その西郷隆盛の弱点を巧く補っていたのが、例えば、大久保利通であり、木戸孝允であり、岩倉具視であったと考えられます。

 

 つまり――

 明治政府は、正式に発足をする前の江戸攻略の時点で、すでに――

 集団指導体制が深く根を張っていたことになります。

明治政府が政権の所在を明確にできなかった理由

 ――明治政府は政権の所在の明確化に失敗をした。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 なぜ明治政府は政権の所在を明確にできなかったのでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 明治政府が発足当初から集団指導体制であったからと考えられます。

 

 明治政府の場合――

 政権を手にした絶対的な指導者というのが見当たらないのです。

 

 例えば、徳川幕府の場合は、政権の発足当初に、

 ――徳川家康

 という絶対的な指導者がいました。

 徳川家康は名実ともに政権を一人で担っていました。

 

 が――

 明治政府には、そういう指導者がいなかったのです。

 

 形式的には、明治天皇が政権を担っていました。

 

 が――

 明治政府が発足をしたときに、明治天皇は10代半ばでした。

 

 政権を実力で掴みとるには、少し早すぎる年齢でした。

 

 実際のところ――

 明治天皇が高い指導性を発揮して徳川幕府から政権を奪いとったわけではありません。

 

 徳川幕府のほうから、いわゆる、

 ――大政奉還(「政権を謹んでお返し申し上げる」の意)

 の申し出があり――

 明治天皇の側近らが、思わぬことに戸惑った挙句、

 ――ひとまず「大政奉還」の申し出を受ける形で政権を引きとった。

 というのが真相であったと考えられています。

 

 その後――

 薩摩藩長州藩の下級武士らと朝廷の公家らが急ぎ話し合って、将軍・徳川慶喜を筆頭とする徳川幕府の関係者をほぼ全て締め出した上で、新たに政権を担う意思を示しました。

 

 このときから、すでに――

 明治政府は集団指導体制なのです。

 

 図抜けた指導者――政権の統括者――がいなかったのです。

 

 よく、

 ――維新の三傑

 といいますね。

 

 ――西郷隆盛

 ――大久保利通

 ――木戸孝允

 の3人です。

 

 これらに、

 ――岩倉具視

 ――大村益次郎

 ――江藤新平

 ら7人を加えて、

 ――維新の十傑

 ということもありますが――

 これら10人は、明治16年に病死をした岩倉具視を最後に、全員が、この世を早々に去っているのです。

 

 彼らの後を引き継いだが、

 ――伊藤博文

 ――山県有朋

 ――井上馨

 といった人たちで――

 明治政府の政体は事実上、彼ら3人を中心に整えられていきました。

 

 ごく簡単にいってしまうと――

 徳川幕府にとっての徳川家康に当たる人物が、明治政府には10人以上もいる、ということです。

 

 政権の発足当初から10人以上の人物が入れ代わり立ち代わり政権に関わっていたわけですから――

 政権の所在が曖昧になるのは、当然のなりゆきといえました。

明治政府のそもそもの失敗

 ――明治政府は、“政権交代の常態化の制度”の確立に失敗をした。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この、

 ――政権交代の常態化の制度

 というのを、やや詳しくいい直せば、

 ――政権を担う人材の交代が常態的に保証をされている制度

 となる、ということも――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 が――

 そもそも――

 明治政府は、

 ――特定の人材が政権を担う制度

 の確立に失敗をしています。

 

 もう少し、わかりやすくいい直すと――

 明治政府では、

 ――誰が政権を握っていたのが不明瞭であった。

 ということです。

 

 政権は――

 形式的には、

 ――天皇

 が握っていました。

 

 が――

 天皇は実質的には政治に関わらず――

 いわゆる、

 ――宰相格の有力な廷臣

 が、天皇に代わって実質的に政治に関わっていました。

 

 その“宰相格の有力な廷臣”というのは――

 当初は、

 ――太政大臣

 と呼ばれ――

 そのうちに、

 ――内閣総理大臣

 と呼ばれるようになりました。

 

 ところが――

 

 この“宰相格の有力な廷臣”は――

 どういうわけか――

 ごく限られた裁量しか与えられなかったのですね。

 

 一般に、組織における権力の源泉は人事権にあると考えられています。

 その人事権が――つまり、閣僚の任免権が――明治政府においては、なぜか“宰相格の有力な廷臣”に与えられなかったのです。

 

 では――

 誰が握っていたのか――

 

 それが、よくわからないのですね。

 

 形式的には、

 ――天皇

 が握っていました。

 

 が――

 前述の通り、天皇は政治に関わりません。

 

 つまり――

 明治政府では、閣僚の任免権を誰が握っているのかさえ、曖昧であったのですね。

 

 よって――

 きのうの『道草日記』で、

 ――明治政府は「憲政の常道」という名の政権交代の常態化に、いったんは成功をしかけたのだが、五・一五事件の発生で、あえなく頓挫をしてしまった。

 と述べましたが――

 その「政権交代」は、実は、

 ――絵に描いた餅

 でした。

 

 政権の所在それ自体が不明確であったので――

 政権交代も何も、あったものではなかったのです。

 

 明治政府の失敗は――

 むしろ、こちらのほうが深刻です。

 

 つまり――

 明治政府は、

 ――“政権交代の常態化の制度”の確立に失敗をした。

 というよりは、

 ――政権の所在の明確化に失敗をした。

 というほうがよいのです。

 

 政権の所在を明確化のためには、いわゆる政体をきちんと定める必要がありました。

 

 ――政体

 というのは、

 ――政治の体制

 のことです。

 

 この政体を、誤謬性のない形で――つまり、誰がみても誤解をしない形で――定めることが必要でした。

 

 その政体の定式化に――

 明治政府は失敗をしたのです。

 

 それは、

 ――国家のグランド・デザインを描くのに失敗をした。

 といってもよいし、

 ――政治の基本的な体制づくりに失敗をした。

 といってもよいでしょう。

 

 その失敗は――

 

 あえて辛辣ないい方をするならば――

 

 ――きわめて初歩的

 です。

明治政府は具体的に何に失敗をしたのか

 ――“国家百年の計”の教育

 について、

 ――国家の安全保障

 の観点を抜きにして論じたところで、意味はない――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――国家の安全保障

 というのは――

 極論をすれば、

 ――国家の存亡

 が問われる状況で、

 ――どんな人材に国家の舵取りを任せるのか。

 の問いへの答えです。

 

 この問いへの答えは、おそらくは明白です。

 ――国家の存亡が問われるような苦境を正しく見抜き、その苦境から抜け出すための打開策を講じられる人材に任せるのがよい。

 です。

 

 このような人材は――

 それまでに政権を担っていた人材の過ちを糺し、正せることが必要です。

 

 が――

 それだけでは不十分で――

 そのような人材が、それまでに政権を担っていた人材に代わって新たに政権を担えるような制度も必要なのです。

 

 つまり、

 ――政権を担う人材の交代が常態的に保証をされている制度

 ですね。

 

 明治政府が失敗をしたのは――

 この、

 ――政権交代の常態化の制度

 の確立でした。

 

 大正期から昭和前期にかけて――

 いわゆる、

 ――憲政の常道

 という慣例――政権交代の常態化を保証はしないまでも、支持はする慣例――が根付きかけたのですが――

 

 昭和7年に、日本史上有名な五・一五事件が起こり――

 その慣例は脆くも崩れ去ってしまったのです。

 

 このことによって――

 明治政府は、自らの過ちを自らの手で糺し、糺す術を失い――

 以後の10年余りのうちに、「太平洋戦争」の苦汁を舐めるに至ります。

 

 五・一五事件は、かえすがえすも酷い事件でした。

 当時20代であった海軍の将校らが、時の内閣総理大臣犬養毅を官邸に襲い、銃で撃ち殺してしまったのです。

 

 背景にあったのは、12月22日の『道草日記』で触れた統帥権干犯問題であったと考えられます。

 昭和5年、時の浜口雄幸内閣が海軍の反対を押し切って海軍の戦力削減に踏み切ったことで、海軍の内閣に対する負の感情が滾っていました。

 折からの大不況が、20代の将校らに「政党政治の腐敗糾弾」の口実を与えました。

 ――農村では娘の身売りまでされているのに、政権闘争に明け暮れるとは何事か!

 というわけです。

 

 不況下で起こっている事象の表層だけをみれば、将校らの言い分にも理があるように感じられます。

 それゆえに、当時の国民の過半は将校らの犯行を寛大な目でみたといわれています。

 

 政治の一部である外交の、そのまた一部である軍事に関わっていた青年らが、政治の全体を司っていた政権の首班を殺してしまったのです。

 

 どう考えても筋の通らないことが、通ってしまった――

 そして――

 その理不尽の深刻さに、国民の過半が気づけなかった――

 

 それは――

 明治政府による、

 ――“国家百年の計”の教育

 の失敗だけでなく、

 ――国民教育

 の失敗をも示しているといえます。

 

 12月24日の『道草日記』で触れたように――

 明治政府による、

 ――国民教育の普及

 についての功績は大といえますが――

 

 その質は――

 必ずしも十分ではなかったといえます。

明治政府が“国家百年の計”の教育を誤った理由

 ――明治政府は“国家百年の計”の教育を誤った。

 ということを――

 12月19日以降の『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 なぜ明治政府は“国家百年の計”の教育を誤ってしまったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく、

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 の充実が、

 ――“国家百年の計”の教育

 に取って代わりうると童心的に考えてしまったのでしょう。

 

 西欧列強の国民教育や学術教育の充実ぶりに度肝を抜かれ、つい、そちらばかりに目を奪われてしまった、と――

 想像をします。

 

 実際は、

 ――“国家百年の計”の教育

 は、12月24日の『道草日記』で述べたように、

 ――国民教育

 とも、

 ――学術教育

 とも本質的な関係はありません。

 

 ついでにいえば――

 ――“国家百年の計”の教育

 における基本内容は――

 おそらく有史以来ほとんど変わっていません。

 

 古代においても、現代においても、

 ――“国家百年の計”の教育

 で習得が求められる事柄は、ほぼ同じに違いないのです。

 

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 における基本内容が、古代と現代とで、まったく異なっていることとは好対照です。

 

 このことに――

 おそらく明治政府は気づけなかったのです。

 

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 については、ともかく――

 少なくとも、

 ――“国家百年の計”の教育

 については、徳川幕府や、それ以前の政権から学ぶことが多々あったにも関わらず――

 明治政府は、学び損なったのですね。

 

 それくらいに――

 西欧列強の近代的な国民教育や学術教育の在り方が眩しく感じられたのでしょう。

 

 あるいは――

 ひょっとすると、

 ――徳川幕府や、それ以前の政権から学べることなど、何一つない。

 と傲岸不遜に思っていたようなところがあったのかもしれません。

 

 ……

 

 ……

 

 日本列島の歴代の政権は――

 中国大陸の歴代の政権が科挙――中央集権的な高級官吏採用試験――の制度を採っていたにも関わらず――

 そのような“中央集権的な束縛”を教育の世界へ持ち込むことに慎重であり続けました。

 

 それは――

 表層的には、科挙の制度や、それに類似の制度が、日本列島の人々には、どういうわけか馴染まなかったというだけのことなのですが――

 

 そのことの深層的な意味を――

 明治政府は、もう少し慎重に捉えたほうがよかったのです。

“国家百年の計”の教育で必ず念頭に置くこと

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 と、

 ――“国家百年の計”の教育

 とでは性質が異なる――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 は、いわば、

 ――国家の福利厚生

 のようなものといってよいのですが――

 

 ――“国家百年の計”の教育

 は、

 ――国家の安全保障

 そのものです。

 

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 を誤っても――

 国家の民度や利益が損なわれるくらいで済みますが――

 

 ――“国家百年の計”の教育

 を誤ったら――

 国家の存亡が問われます。

 

 国家の存亡が問われるような事態では、国民の生命や財産の多くが失われかねません。

 ほとんどの国民にとって、それは切迫の事態です。

 

 専制主義の国家では――

 国家の首脳部を占める人材は、君主や君主の一族、および一部の支配者階層から充てられます。

 

 よって、

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 と、

 ――“国家百年の計”の教育

 とは、全くといってよいほどに、関係がありません。

 

 が――

 民主主義の国家では――

 国家の首脳部を占める人材は、国民のあらゆる階層から広く輩出をされることが前提となっていますから――

 

 ――“国家百年の計”の教育

 の土台には、

 ――国民教育

 がある、といってよく――

 また、

 ――学術教育

 が、

 ――“国家百年の計”の教育

 の側面を支えている、といってもよいでしょう。

 

 そのような意味で――

 少なくとも民主主義の国家では、

 ――“国家百年の計”の教育

 と、

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 とは、ある程度は繋がっています。

 

 とはいえ――

 民主主義の国家といえども、 

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 に邁進をしてさえいれば、

 ――“国家百年の計”の教育

 が自然と確立をされていく、というわけではありません。

 

 ――“国家百年の計”の教育

 は、

 ――国家百年の計

 を十分に意識した上で――

 例えば、

 ――国家の存亡

 が問われるような深刻な局面において、

 ――どのような人々に国家の舵取りを任せるのがよいのか。

 という問いへの答えを示すことでもあります。

 

 ――国家の安全保障

 を念頭に置かずに、ただ何となく、

 ――“国家百年の計”の教育

 を考えたところで、何ら意味はないのです。

“国家百年の計”の教育は国民教育や学術教育とは違う

 ――明治政府は“国家百年の計”の教育を誤った。

 ということを――

 12月19日以降の『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 こう述べると、

 ――そんなことはない。

 との反論が寄せられるかもしれません。

 ――日本列島に近代国家の礎となりうる国民教育をもたらしたのは、他ならぬ明治政府である。

 という主張です。

 

 たしかに、

 ――国民教育の普及

 や、

 ――学術教育の確立

 という点では、明治政府の功績は大といってよいでしょう。

 義務教育が法制化をされ、女性教育も本格化をし始めました。

 西欧の文物を積極的に学び、西欧の学者・研究者を高額の給与で招きました。

 その結果、日本発の科学研究などが世界に向けて発信をされるまでになりました。

 これらは、たしかに、明治政府の功績です。

 

 が、

 ――“国家百年の計”の教育

 は、

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 とは少し違うのです。

 

 それは、

 ――国家の運営を担う人材の育成

 です。

 あるいは、

 ――自国の損害を確実に避けつつ、自国の利益を的確に追い求めうる指導者・政治家の養成

 です。

 

 明治政府が失敗をしたのは――

 こちらです。

 

 もちろん――

 明治政府をヒイキ目にみれば、色々と釈明を試みることはできます。

 

 実際のところ、見識のある指導者や政治家は、明治前期はもちろんのこと、明治後期以降の明治政府においても、少なからず見出すことはできます。

 

 が――

 いわゆる結果責任を厳しく問うならば――

 それら釈明の大半は、

 ――いいわけ

 です。

 

 明治政府が――正確には、昭和前期の政権が――西欧列強を相手に、勝てない戦いを挑み、敗れ、自国の領土に外国の軍隊の駐留を許した事実は動きません。

 

 おそらく――

 明治政府は、

 ――国民教育

 や、

 ――学術教育

 に注意を注ぐあまり、

 ――“国家百年の計”の教育

 に注意を注げなかったのです。

 

 あるいは、

 ――優れた“国民教育”や“学術教育”の延長線上に“国家百年の計”の教育がある。

 と信じていたように、僕には思えます。

 

 実際には、違います。

 

 たしかに―― 

 少なくとも民主主義の国家では、

 ――国民教育 

 や、

 ――学術教育

 と、

 ――“国家百年の計”の教育

 とは、多少なりとも繋がってはいます。

 

 が――

 本質的には繋がっていません――少なくとも教育としての性質は、だいぶ異なります。

統帥権干犯問題が昭和前期に現れた理由

 ――統帥権干犯問題

 が日本史の表舞台に飛び出してきた昭和5年頃、海軍の上層部は明治政府の下で育った世代で占められていた――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 実は――

 これより一世代分ほど前――明治後期の頃――にも、統帥権干犯問題は厳然と存在をしていました。

 

 正確には、

 ――統帥権干犯問題の萌芽である制度上の“いい加減さ”

 が存在をしていたのです。

 

 が――

 この頃は、その“いい加減さ”に多くの人々が気づいていて――

 それが深刻な問題となりうる危険性に十分に意識的であったようです。

 

 よって――

 その“いい加減さ”が、実際に深刻な問題となることがないように、政権も軍も阿吽の呼吸で胸の内を照らし合わせ、巧く対処をしていたそうです。

 

 具体的には、

 ――統帥権は、形式的には内閣から独立をしているようにみえるが、軍事が政治の一部であることは自明であるので、実際には、内閣に従属をしているものとみなして対処をしていくのが賢明である。

 との見解が、政権の首脳部と陸・海軍の上層部との間で、何となく共有をされていた――

 ということです。

 

 明治後期の頃までは、徳川幕府の下で生まれた世代が政権や軍の要職を占めていました。

 

 つまり――

 明治政府の中枢に、徳川幕府の“国家百年の計”の教育の残滓が、まだ十分に残っていて、

 ――軍事は政治の一部に過ぎない。

 との前提が、ごく自然に共有をされていたのですね。

 

 昭和前期に入って――

 徳川幕府の“国家百年の計”の教育の残滓が、明瞭に薄れだします。

 

 明治政府による“中央集権的な束縛”の教育が新奇の奔流となって、その残滓を押し流し始めたのです。

 

 つまり――

 統帥権干犯問題が昭和前期になって日本史の表舞台に飛び出したのは、決して偶然ではない――

 ということになります。