マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

明治政府が軍人に選挙権を与えなかった理由

 ――明治政府が軍人に選挙権を与えなかった理由がよくわからない。

 ということを――

 おとといの『道草日記』で述べました。

 

 ――軍人による政治への介入を防ぐ。

 という目的以外に、理由は見当たらない、と――

 

 ……

 

 ……

 

 その後、さらに調べていくうちに――

 もう一つだけ、理由らしきことに行き当たりました。

 

 それは、

 ――政治家による軍事の私物化を防ぐ。

 という目的です。

 

 もう少し、わかりやすくいうと、

 ――政治家同士の争いに軍人が利用をされないようにする。

 ということ――

 あるいは、

 ――政治家が軍人に命じて自分の政敵を殺すことがないようにする。

 ということです。

 

 明治政府の首脳部が意識をしていたのは――

 どうやら、

 ――軍人による政治への介入

 ではなく、

 ――政治家による軍事の私物化

 のほうであったようです。

 

 つまり、

 ――軍人に選挙権を与えなければ、軍人が政治に関心をもつことはなく、政治家が甘言を弄して軍人に近づき、軍人を操ろうとしても、応じないであろう。

 ということですね。

 

 明治期以降の歴史を知っている僕らからすると、

 (ちょっとピントがズレてるなぁ)

 と感じられるのですが――

 

 明治政府の創成期の首脳部が江戸期の下級武士たちであったことを考えると、

 (まあ、無理もないか)

 と感じられます。

 

 江戸期までは――

 政争が軍事紛争に発展をすることが――あるいは、軍事紛争に発展をしかねい情勢になることが――よくありました。

 

 つまり――

 明治政府の創成期の首脳部が恐れたのは――

 政争に端を発する国内戦争であったのです。

 

 おそらくは――

 例えば、内閣の閣僚同士が東京の市街地で軍事衝突を繰り広げたりしないであろうか――

 という懸念――

 あるいは――

 例えば、政争に敗れた政治家が地方から中央へ独立戦争を仕掛けたりしないであろうか――

 という懸念です。

 

 背景にあったのは、

 ――軍人は政治家に隷属をしてしまいやすい。

 との前提です。

 

 江戸期までは、

 ――軍人

 といえば、

 ――下級・中級武士たち

 でした。

 また、

 ――政治家

 といえば、

 ――上級武士たち

 でした。

 

 この前提に立てば、

 ――軍人による政治への介入を防ぐ。

 という目的と、

 ――政治家による軍事の私物化を防ぐ。

 という目的とは――

 表裏一体とみなせます。

明治政府は“軍事と政治とに関わる矛盾”に気を配れなかった

 明治政府は、

 ――軍事を握った者が政治を握ってきた。

 という歴史的経緯を重くみなかったのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――軍事は外交の一部であり、外交は政治の一部である。

 という社会的原理とは別に、

 ――軍事を握った者が(外交を含む)政治を握ってきた。

 という歴史的経緯があります。

 

 これは、おそらくは古今東西――多少なりとも例外はあるにせよ――ほぼ共通の事情です。

 

 これら2つの命題は――

 互いに矛盾をしています。

 

 が、

 ――軍事を握った者が政治を握った後で「政治は軍事に優越をする」という原理に従ってきた。

 と仮定をすれば――

 この、

 ――軍事と政治とに関わる矛盾

 は表に出ないのですね。

 

 おそらく――

 古代以降、洋の東西を問わず、賢明な政治指導者や政治指導部は――

 こうした矛盾が表面化をしないように、それとなく気を配っていました。

 

 逆に――

 そうした気配りができなかった者たちの多くは――

 政治指導者や政治指導部としての地位を失っていったと考えられます。

 

 つまり――

 軍事的な問題の解決のために、政治的な問題を捻り出す――

 というような不合理を試みれば――

 いずれは政権を奪われた――

 ということです。

 

 現代日本にとって――

 その最も身近な例が、

 ――統帥権干犯問題に揺れた明治政府

 ということになります。

 

 ただし――

 明治政府の場合は、外国の軍隊に占領をされ、政体――政治の体制――の解体という形で政権を奪われる前に、「太平洋戦争」という苦渋を国の内外の民に強い、その結果、数多くの人命を損なわせたという点で――

 まことに迷惑な政権の奪われ方をしました。

 

 もちろん――

 ここでいう、

 ――明治政府

 とは――

 12月18日の『道草日記』で述べた通り――

 ――明治期に生じて明治期を統べた政権による政体だけを指すのではなく、その後の大正期や昭和前期を統べた政権による政体も含めたもの

 です。

 

 しばしば――

 明治維新を成し遂げた明治政府と太平洋戦争を起こした昭和前期の政府とを分けて考える向きがありますが――

 そうした見方は、おそらく間違いです。

 

 たしかに――

 2つの政府を分ける考え方は――

 30年ほど前までは――

 ごく当たり前であったように思いますが――

 

 今は違うでしょう。

 

 ――政権は多少は変質をしたかもしれないが、政体は明らかに継続をしていた。

 ということの洞察が――

 ここ30年ほどで深まり、広まってきています。

明治政府が十分には理解をしていなかったかもしれない歴史的経緯

 ――明治政府は軍人に選挙権を与えなかったために、結果として、軍人による政治への不当な介入を許した。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では――

 なぜ明治政府は軍人に選挙権を与えなかったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 これが――

 よくわからないのですね。

 

 色々と調べてみたのですが――

 たんに、

 ――軍人による政治への介入を防ぐ。

 という以上の目的は――

 どうやら、なかったようなのです。

 

 つまり、

 ――軍事は外交の一部にすぎず、外交は政治の一部にすぎないのであるから、軍事が政治に優越をすることはあってはならない。

 との前提から――

 素朴に、

 ――軍人が政治に関わることは許さない。

 つまり、

 ――軍人には選挙権を与えない。

 との結論に至ったようなのです。

 

 以上は僕の素人考えで――

 たぶん、どこかで間違っていると思うのですが――

 

 仮に――

 この考えの通りだとしたら――

 

 明治政府の首脳部は、

 ――軍事は外交の一部であり、外交は政治の一部である。

 との社会的原理は十分に理解をしていたけれども、

 ――軍事を握った者が(外交を含む)政治を行ってきた。

 との歴史的経緯は十分には理解をしていなかった――

 ということになります。

 

 事の真偽は――

 僕には判断をしかねます。

 

 が――

 明治政府の首脳部が、

 ――軍事を握った者が政治を行ってきた。

 との歴史的経緯を軽くみたか、なかったことにしたか――

 ということについては、

 (おおいにありうる)

 と、僕には感じられます。

 

 1月1日の『道草日記』で述べた通り――

 大政奉還の頃――

 明治政府は、クーデターを起こして政権を握りました。

 

 この時点で――

 徳川幕府の最後の将軍・徳川慶喜は、まだ強大な“軍事の裁量権”を握っていました。

 

 少なくとも、徳川慶喜が、その気になれば――

 徳川幕府が成立をした際と同じような、

 ――天下分け目の大戦(おおいくさ)

 に持ち込まれる可能性がありました。

 

 その可能性を――

 徳川慶喜は、“軍事の裁量権”を潔く手放すことで、即座に摘み取り――

 明治政府の成立を間接的に大いに助けたのです。

 

 ――明治維新の最大の功労者は徳川慶喜である。

 と、ときに皮肉交じりにいわれるのは――

 そのためです。

 

 大政奉還の頃、徳川慶喜は、まだ軍事を握っていた――

 したがって、これまでの歴史的経緯を踏まえたら、引き続き徳川慶喜が政治を握るのが当然であった――

 が、いわゆる“維新の志士”たちがクーデターを起こし、政権を掠め取った――

 その暴挙を、徳川慶喜は許した――自分自身の利害や徳川幕府の利害ではなく、日本列島に住まう人々の利害を総体的に考え、許した――

 

 このような明治政府・創成の実態に光が当たることを――

 明治政府の首脳部たちが恐れた可能性は十分にあるでしょう。

 

 この実態に光が当たれば――

 徳川幕府徳川慶喜の権威が回復をすることはあっても、明治政府や明治天皇の権威が増強をすることはありえなかったからです。

明治政府は軍人に選挙権を与えなかった

 ――明治政府は進歩的であろうとしすぎたために、その政体――政治の体制――にが孕んでいた“軍事の裁量権の独立”を取り除き損ねるという初歩的な失敗をした。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――軍事の裁量権の独立

 を許した要因の1つに、

 ――参政権の制限

 が挙げられる、と――

 僕は考えています。

 

 明治政府は、1989年に憲法を公布し、衆議院の選挙を始めました。

 

 その際――

 選挙権を、基本的には、

 ――高額納税者の男性

 に限りました。

 

 いわゆる制限選挙であったのですね。

 

 他にも、

 ――華族の当主には選挙権を与えない。

 と定められました。

 

 ――華族

 というのは、江戸期までの公家や大名家などの一族を指します――いわゆる貴族階級の人々です。

 

 なぜ華族の当主には選挙権が与えられなかったかというと――

 華族の当主には、

 ――貴族院

 という別の議院――衆議院とは別の議院――への関りが保証をされていたからです。

 

 ところが――

 どういうわけか、

 ――軍人

 にも選挙権が与えられなかったのですね。

 

 しかも、華族の当主とは違い、軍人には衆議院に代わる何か別の議院への関りが保証をされていたわけでもありませんでした。

 

 ただ、

 ――政治には関わるな。

 と戒められただけであったのです。

 

 つまり――

 現代日本の感覚でいえば、あきらかに、

 ――不当に――

 選挙権を奪われていた、と――

 いってよいでしょう。

 

 この、

 ――軍人からの選挙権の剥奪

 が、

 ――軍事の裁量権の独立

 を許した直接の要因ではないか、と――

 僕は考えています。

 

 軍部による内閣への威圧ないし干渉が当たり前であった昭和前期の印象が強烈なので、少し意外な気がするのですが――

 明治政府は、軍人を政治から積極的に遠ざけようとしました。

 

 このことが、一部の軍人たちの政治に対する異様な関心を招いたのではないか、と――

 僕は思います。

 

 ――政治に関わるな。

 といわれたら、より関わりたくなるのが人情です。

 

 あるいは――

 政治から積極的に遠ざけられたら――

 そこに何か合理的な理由を人は見出さずにはいられなくなるものです。

 

 その際に、

 ――軍事は、実は政治よりも崇高な営みなのである!

 との誤解が生まれたとしても不思議ではありません。

 

 ――我々軍人は命を張って国家に尽くしている。それなのに、政治に関われないのは、なぜか! それは、本来、政治が軍事よりも下賤な営みであるからにほからない!

 というわけです。

 

 そのような誤解が、後世の統帥権干犯問題を生み出し、五・一五事件を引き起こしていったと考えられます。

 

 ――政治という下賤な営みに関わっている者どもに、我らの崇高な営みが妨げられてなるものか!

 というわけですね。

 

 何とも皮肉な話です。

明治政府は進歩的であろうとしすぎた

 ――大政奉還の頃、徳川慶喜に政権を任せていたら、後年の明治政府に生じた“軍事の裁量権の独立”は生じなかった可能性がある。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 結局のところ――

 僕が12月31日の『道草日記』でいい始めた、

 ――明治政府の異様

 というのは、

 ――軍事の裁量権の独立

 に結実をしているといえます。

 

 明治政府が日本の近代化に果たした役割は真に大きく、また、その功績も実に大きかったのですが――

 それら事実が全て色あせかねないほど“異様”な瑕疵を、明治政府の政体――政治の体制――が含んでいて――

 そのことを――

 僕は、どうしても見すごす気になれないのですね。

 

 その“異様”な瑕疵は――

 12月28日の『道草日記』で述べた通り、

 ――きわめて初歩的

 であったといわざるをえません。

 

(なんで、こんな初歩的なことで?)

 と、思わず苛立ってしまうくらいに――

 それは基本中の基本の過ちでした。

 

 なぜ、こんなことになってしまったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく、

 ――明治政府が、あまりにも進歩的であろうとしたから――

 でしょう。

 

 日本列島の人々が、西欧列強の外交圧力に半ば屈する形で、

 ――明治維新

 という名の変革を遂げた後――

 明治政府は、わずか半世紀ほどの間に富国強兵・殖産興業を成し遂げ――

 第一次世界大戦では戦勝国の一員となり、大正期が終わる頃までには西欧列強に伍しうる国力――完全に伍しているわけではなかったにせよ――を備えていました。

 

 この発展は――

 世界の近現代史の常識に照らせば、

 ――離れ業

 といえます。

 

 この“離れ業”が可能であったのは――

 明治政府が常に進歩的であろうと努めたからに、ほかなりません。

 

 が――

 

 おそらくは――

 進歩的であろうとしすぎたのですね。

 

 進歩的であろうとしすぎて――

 うっかり初歩的な失敗をしてしまった――

 

 政体に隠れていた初歩的な瑕疵――「軍事の裁量権の独立」という瑕疵――を取り除き損ねるという初歩的な失敗をしてしまった――

 

 そこに感じられるのは――

 あえて卑近な喩えを持ちだせば――

 さながら、

 ――未熟な受験生

 にみられる悲哀です。

 

 ――応用に拘泥をするあまり、基本から逸脱をしてしまった受験生

 の滑稽といってもよいでしょう。

 

 このことを思うとき――

 僕は暗澹たる気持ちになります。

 

 明治政府の功績が目覚ましい分――

 余計に暗く、重い気持ちになってしまうのです。

徳川慶喜に政権を任せていたら――再考

 ――明治政府の異様

 について述べています。

 

 この“異様”を避けるには、

 ――ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。

 ということを、1月2日の『道草日記』で述べました。

 

 実際には――

 それは不可能であったろうことを、翌日の『道草日記』で述べました。

 

 以上を踏まえた上で――

 あえて、

 ――大政奉還の頃に、ひとまず徳川慶喜に政権を任せていたら、どうなっていたか。

 ということを、もう1度、考えてみたいと思います。

 

 1月2日の『道草日記』では、

 ――軍事を含む政治全般を担う“宰相格の有力な廷臣”が誕生していたのではないか。

 ということを述べました。

 

 ――徳川慶喜が、徳川幕府の無くなった後の政体――政治の体制――に引き続き参画をしていたならば、かつて将軍職に就いていた自身の経験を踏まえ、政治全般を担いつつも軍事の裁量権は手元に残す努力をしていたことであろう。

 と――

 

 ただし――

 

 1月3日の『道草日記』で述べたように――

 徳川慶喜には、少なくとも同時代人からの人望が十分ではなかったために――

 その政権は、すぐに倒れていたと考えられます。

 

 政権が倒れるだけでなく、政体それ自体が作り直しになっていた可能性も、あったでしょう。

 

 とはいえ――

 

 後世の統帥権干犯問題のことを考えると――

 

(そのほうが、まだマシだった)

 と――

 僕は感じます。

 

 徳川慶喜の政権や政体がなくなっても――

 その後、伊藤博文のような人物が出てきて、後継の座に収まっていたはずです。

 

 そして――

 その人物は、徳川慶喜にならい――つまり、政治・外交・軍事の常識に照らし――軍事の裁量権をしっかりと握った“宰相格の有力な廷臣”になっていたことでしょう。

 

 ――明治政府の異様

 は、表面的には、

 ――クーデターによって徳川慶喜をきたる政権・政体から不自然に締め出したこと

 に始まっているといえます。

 

 が――

 深層的には、

 ――政治・外交と軍事とを無意識に分け隔ててしまったこと

 に始まっているといえます。

 

 軍事は、外交の一部であり、外交は政治の一部であるにも関わらず――

 なぜか政治・外交と軍事とを分け隔ててしまった――おそらくは、十分な吟味をしないままに、“維新の志士たち”の間で、何となく分担をしてしまった――

 

 大政奉還の頃――

 徳川慶喜を不自然に締め出したりしなければ、どうなっていたか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく――

 徳川慶喜の政権は、すぐに瓦解をしていました。

 

 が――

 後世の統帥権干犯問題を生み出した、

 ――軍事の裁量権の独立

 は生じなかった可能性が高まっていたであろう、と――

 僕は考えています。

徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いの前後で何を考えていたのか

 ――徳川慶喜のことを、“近代日本の最初の政治家”ないし“文科・理科双方に通じた教養人”とみるなら、鳥羽・伏見の戦いの前後の動向も、それほど不可解ではなくなってくる。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 このように述べると――

 徳川慶喜のことを快く思っていない向きから、

 ――あの臆病者の肩をもつのか!

 と叱声を浴びそうです。

 

 実際に――

 僕は、どちらかといえば、徳川慶喜の肩をもっているほうだと思いますが――

 

 それでも――

 徳川慶喜のことを「臆病者!」と詰りたくなる人たちの気持ちも、わからないではないのです。

 

 やはり――

 鳥羽・伏見の戦いの後、配下の軍勢を大坂に残して、自分の周囲の者たちだけを連れて軍艦で江戸に向かったというのは、

(人の上に立つリーダーとして、どうなのか)

 と思います。

 

 いくら内戦を防ぎ、西欧列強の侵略を封じるためであったとしても、

(もう少し違ったやり方もなくはなかったろう)

 と思います。

 

 ……

 

 ……

 

 いったいぜんたい――

 

 徳川慶喜という人は――

 鳥羽・伏見の戦いの前後で何を考えていたのか――

 

 ……

 

 ……

 

 このことを深く疑問に思う人たちは――

 決して少なくないでしょう。

 

 そんな人たちの一人に、

 ――伊藤博文

 がいます。

 いわずと知れた初代・内閣総理大臣です。

 

 伊藤博文は、明治30年代、ある外交儀礼の晩餐会で、徳川慶喜と同席をしたことがあるそうです。

 

 宴もたけなわとなって海外の招待客が帰っていった後――

 伊藤博文は、まだ居残っていた徳川慶喜に向って、唐突に言葉を発したといいます。

 

「はなはだ不躾な質問で、まことに失礼ではございますが、ずっと前から不思議に思っておりましたことですので、機会があれば、ぜひお聞きをしたいと思っておりましたものですから、お訊ねをいたします。大政奉還の後(鳥羽・伏見の戦いの前後に)ひたすら朝廷に恭順の態度に出られたのは、どのようなわけですか」

 

 徳川慶喜の答えは、伊藤博文の予想を超えたものであったようです。

 

「ずいぶんと改まったご質問ですが、実は、これといってお話しをすべきことはないのです。私の生まれた水戸(徳川)家は、先祖代々、朝廷を篤く敬って参りました。そのことは父からも固く申し付けられておりました。つまり、ただ親の遺命に従ったまででございます。まことに知恵のないやり方で、恥ずかしいというほかはございません」

 

 この頃の徳川慶喜は、還暦を過ぎていたと考えられます。

 

 この返答に――

 伊藤博文は感服をしたそうです。

 

 ――あのような質問を私たちなどが受ければ、後知恵で色々と理屈を付け足すところだが、そのような気配が慶喜公には微塵もなかった。

 と――

 

 ちなみに――

 伊藤博文徳川慶喜より4つだけ年下でした。

 

 ……

 

 ……

 

 ――まことに知恵のないやり方で、恥ずかしいというほかはない。

 というのは、半分は嘘で半分は本当であろう、と――

 僕は感じます。

 

 おそらくは、

 ――どのように知恵を絞るかを必死に考えた結果、「あえて知恵を絞らない」という知恵に辿りついた。

 という経緯ではなかったでしょうか。

 

 そして――

 その後30年ほどを経て、

 ――「歴史に汚名を残して恥ずかしい思いをしている」と認めることでしか、自分の役割は全うできない。

 という洞察を得たのではなかったか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 ――「あえて知恵を絞らない」という知恵

 は、30歳の頃の徳川慶喜の達観でしょう。

 

 ――「恥ずかしい思いをしている」と認める

 は、還暦の頃の徳川慶喜の諦観でしょう。

 

 (見事だ)

 と――

 僕は思います。

徳川慶喜の決断に感じられる矜持

 ――徳川慶喜には人望が不足をしていたので、政権が任されることはなかった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――思いやりが苦手な人であった。

 との見方もされています。

 

 要するに、

 ――集団指導体制

 の一角として存在感を発することはできても、

 ――超人(カリスマ)指導体制

 の中心で活躍はできない人物であった――

 ということです。

 

 よって――

 徳川慶喜に、例えば、徳川家康の残像を重ねたがる人たちにとっては、

 ――敵前逃亡をした意気地のない文弱な指導者

 という評価になります。

 

 それは、決して的外れとはいえませんが――

 

 僕は、少し違った見方をしています。

 

 ……

 

 ……

 

 イギリスに――

 以下のような冗談があるそうです。

 

 ――オクスフォード大学の学生は「世界は自分のものだ」と思っているが、ケンブリッジ大学の学生は「世界は誰のものでも構わない」と思っている。

 

 オクスフォード大学ケンブリッジ大学も、世界的に有名です。

 オクスフォード大学は概して文科系に優れ、高名な政治指導者を数多く世に送り出しています。

 一方、ケンブリッジ大学は概して理科系に優れ、高名な自然科学者を数多く世に送り出しています。

 そうした学風の違いを冗談に表したものです。

 

 おそらくは――

 ケンブリッジ大学寄りの視点から生まれた冗談でしょう――つまり、理科系の処世感覚をやや自虐的に振り返った冗談です。

 

 が――

 そこには、人間社会の狭い枠組みにとらわれず、常に世界を多角的にとらえようとする矜持が隠されていることは、自明です。

 

 明治維新の後――

 徳川慶喜は、現在の静岡へ移り住むことが許されます。

 

 そこで――

 趣味に没頭をする生活を送るのです。

 

 その趣味の中に、

 ――写真

 や、

 ――油絵

 がありました。

 

 写真撮影が全く一般的ではなかった時代に撮影に興じていること――

 油絵では山野の樹木や岩盤などの様相が丁寧に描かれていたこと――

 などから――

 徳川慶喜は、

 ――理科系の素質を併せ持った人

 ではなかったか、と――

 僕は考えています。

 

 つまり、

 ――ケンブリッジ大学寄りの視点

 も併せもっていたのではなかったか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 徳川慶喜は――

 徳川幕府の最後の将軍として、一度は“世界”を“自分のもの”にしておきながら――

 権力闘争に敗れ、鳥羽・伏見の戦いが起こると、あっさり敵方に恭順の意を示しました。

 

 武家の棟梁としては、あるまじき発想です。

 

 が――

 徳川慶喜を、

 ――最後の将軍、武家の棟梁

 とみるから、そうなるのです。

 

 もし、

 ――近代日本の最初の政治家、文科・理科双方に通じた教養人

 とみるなら、話は変わってきます。

 

 形勢不利とみて、すぐに謹慎・隠遁の決断を下したところに――

 僕は、

 ――世界は誰のものでも構わない。

 というケンブリッジ大学流の矜持を感じます。

 

 もちろん――

 真偽は不明です。

 

 が――

 この視点によれば――

 少なくとも徳川慶喜の決断は、そんなに不可解ではなくなるのです。

徳川慶喜に政権が任されなかった理由

 ――明治政府の発足当初の異様を避けるには、ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。

 との結果論について、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ここでの主語――「異様を避ける」や「政権を任せる」の主語――は、

 ――日本人

 もしくは、

 ――日本列島の人々

 です。

 

 後世の統帥権干犯問題のことを思うと、

 (ホント、任せておけばよかったのに……)

 と思います。

 

 とはいえ――

 

 しょせんは結果論です。

 

 ――大政奉還の頃、日本人は「徳川慶喜に政権を任せない」という過ちを犯した。

 などと主張をするつもりはありません。

 

 当時の日本人にとって――

 徳川慶喜に政権を任せようが、“維新の志士”たちに政権を任せようが、大した違いありませんでした。

 

 そして――

 “維新の志士”たちにとっては――

 徳川慶喜に政権を任せることなど、およそ考えられないことであったでしょう。

 

 自分たちの命がかかっていたからです。

 

 言論の自由が保証をされていた民主主義の国家での話ではありません。

 ――このまま徳川慶喜を中心とする政権ができてしまえば、自分たちは殺されるに違いない。

 そう考えたことは、想像に難くありません。

 

 先ほども述べた通り――

 仮に、徳川慶喜が政権の首班になっていたとしても、日本の近現代史は明治政府が興った現実の史実と大差のない展開になったに違いない、と――

 僕は考えています。

 

 が――

 政権を担った人々の顔ぶれは全く変わっていたはずです。

 

 徳川慶喜が政権を担っていれば――

 明治政府で重責を果たした“維新の志士”たちのほとんどは、歴史に名をとどめることなく、多くは若くして殺されていたでしょう。

 

 徳川慶喜自身は「殺せ――」とは命じなかったかもしれませんが――

 徳川慶喜の周囲の者たちが、そのように命じた可能性は高いと感じます。

 

 いったん政権を手に入れた者たちは――

 それを保ち続けるのに手段は選ばないものです。

 

 よって――

 “維新の志士”たちが徳川慶喜に政権を任せることは、ほぼ不可能であった――

 それは、よいとして――

 

 では――

 そのほかの人々は、どうであったでしょうか。

 

 徳川幕府の関係者たちの多くは、もちろん賛成であったでしょうから、いちいち論じません。

 

 では――

 “維新の志士たち”でもなく、徳川幕府の関係者でもない人たちは、どうであったか。

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――当時の日本人は概して徳川慶喜に政権を任せる気にはなれなかったのであろう。

 と考えています。

 

 理由は、

 ――人望の不足

 です。

 少なくとも10代、20代頃の徳川慶喜には――大政奉還の頃までの徳川慶喜には――いま一つ人望がなかったのですね。

 

 知的能力に頗(すこぶ)る秀でたいたことは間違いありません。

 

 が――

 歴史が伝えるところをみると――

 人間的な包容力に若干の問題があったようです。

 

 異端や異論を許す懐の深さが、徳川慶喜には欠けていました。

 

 島津久光(ひさみつ)と反りが合わなかったことは有名です。

 

 ――島津久光

 というのは――

 当時の薩摩藩の藩主の父親で、“維新の志士”である西郷隆盛大久保利通らの主君筋に当たる人物でした。

 

 主君筋に当たりはしますが――

 主君ではありません。

 

 あくまで、

 ――藩主の父親

 であって、

 ――藩主

 ではなかったのですね。

 

 藩主ではないのに、藩の最高指導者になっていました。

 その意味で、島津久光は間違いなく異端です。

 

 その島津久光に対し、徳川慶喜は初対面で面罵をしたと伝えられています。

 ――天下の奸物

 と詰ったそうです。

 ――奸物

 というのは、

 ――悪知恵を働かせる者

 くらいの意味です。

 

 背景にあったのは――

 当時の政治課題に取り組む方向性の違いでした。

 

 その違いを具体的に述べ始めると煩雑になるので、ここでは述べませんが――

 島津久光徳川慶喜には許容の余地のない異論を抱えていたのです。

 

 面罵は酒席でのことであったと伝えられます。

 

 が――

 そのことを――

 島津久光は長らく恨んだようです。

 

 徳川慶喜は20歳ほど年下でした。

 

 しかも――

 この頃の徳川慶喜は、徳川家の一族として徳川幕府の要職にはありましたが――

 まだ将軍職には就いていませんでした。

 

 以後――

 島津久光は、反徳川幕府の動きに流されていきます。

 

 それまでの島津久光は――

 西郷隆盛大久保利通らの反徳川幕府の動きを多少なりとも抑え込むなど――

 むしろ親徳川幕府の動きをしていました。

 

 つまり――

 島津久光は、

 ――“維新の志士”たちでもなく、徳川幕府の関係者でもない人たち

 の代表格であったといえます。

 

 そんな人物を手懐けることができなかったという点で――

 徳川慶喜に、いま一つ人望がなかったのは、ほぼ確実です。

 

 もちろん――

 徳川慶喜にとって、島津久光は異論を抱える異端の者であり――

 どんな人にとっても、異端や異論を許すのは困難です。

 

 異端や異論が許せなかったからといって――

 決して責められるべきではありません。

 

 が、

 ――とくに人望があるわけではなかった。

 というのは間違いないでしょう。

 

 人望のある人物なら――

 このような離反には遭わないものです。

明治政府の異様を避けるには、どうすれば良かったか

 ――明治政府は発足当初から異様であった。

 ということを、おとといの『道草日記』から繰り返し述べています。

 

 この、

 ――異様

 を避けるには、どうすれば良かったか――

 

 ……

 

 ……

 

 結果論は明らかです。

 

 ――ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。

 です。

 

 大政奉還の頃までには、

 ――徳川幕府

 という政体――政治の体制――では、もはや西欧列強の外交圧力に抗えないことは、ほぼ自明であり――

 そのことは、最後の将軍・徳川慶喜も、よくわかっていました。

 

 徳川慶喜が目指した政体は――

 おそらく、後の明治政府が目指すことになる政体と、ほぼ同じです。

 

 他に選択肢はありませんでした――少なくとも、現実的な選択肢はありませんでした。

 

 徳川慶喜は、最終的には地方分権的な徳川幕府の政体を完全に取り壊し、後の明治政府が目指す中央集権的な政体を設えて――

 その政体における、

 ――宰相格の有力な廷臣

 として、自身、引き続き政権を担うつもりでいたと考えられます。

 

 徳川慶喜だけでなく、徳川幕府の首脳陣、あるいは、“維新の志士”たちの一部も――

 そのような政体の構想を抱いていたでしょう。

 

 それは、決して時代錯誤の空想ではありませんでした。

 

 “維新の志士”のなかで最も有名と思われる、あの坂本龍馬でさえ――

 徳川慶喜が政権の首班となる政体を漠然と思い描いていたと、いわれるくらいです。

 

 もし、徳川慶喜が明治政府のような中央集権的な政体において、“宰相格の有力な廷臣”として政権を担っていれば――

 後世、あの統帥権干犯問題が持ち上がることはなかったでしょう。

 

 徳川慶喜は、軍事行動の実務経験こそ不足をしていましたが、

 ――将軍として軍事を司りつつ、政治全般に当たる。

 という武家政権の伝統を受け継いだ人物です。

 軍事の裁量権を握り続けることの重要性は、理の当然であったでしょう。

 

 徳川幕府が崩れた後に――

 軍事を司りつつ、政治全般に当たる人物が、一人でも登場をしていれば――

 後世、

 ――統帥権は内閣から独立をしている!

 などと奇怪な主張がされることもありえなかったに違いないのです。