社会科学と自然科学との境界が完全に取り払われるときに、社会科学でも自然科学でもない、ただの科学が誕生する――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
今さらながらに、いいそえますと――今日でも、たんに「科学」といういわれ方はあります。
――自然科学
の意味で、
――科学
といわれているのです――「自然科学」といわれるよりも、たんに「科学」といわれることのほうが多いでしょう。
この場合には、社会科学と自然科学との垣根を認めた上で、たんに社会科学を「社会科学」と呼び、自然科学を「科学」と呼んでいるだけです。
きのうの『道草日記』で僕が述べたことは、社会科学と自然科学との垣根を無くすことですから、例えば、社会科学も「科学」と呼び、自然科学も「科学」と呼ぶ――そういうことでした。
もう一つ「人文科学」という学問もありますが――
これにまで話を広げると、ちょっと脱線が酷くなるので、きょうのところは触れません。
9月20日の『道草日記』で、僕は、
――2010年頃までは、自然科学教育が最も大切であった。が、在韓アメリカ軍の撤退の可能性が浮上してきた昨今では、状況は違う。最も大切なのは社会科学教育だ。
といった主旨のことを述べました。
この主張は、今も変わりはありませんけれど、あくまで現実論です。
理想論としては、以下の主張になります。
――2010年頃までは、社会科学と自然科学とが区別されていても問題はなかった。が、在韓アメリカ軍の撤退の可能性が浮上してきた昨今では、状況は違う。社会科学と自然科学とは、もはや区別されてはいけなくなった。
あくまで、理想論です。
“脳の神経模様”が、今日でいうところの社会科学的な研究で自在に活用されるような状況にならない限り、社会科学と自然科学とが完全に同一視されることは、たぶん、ありえません。