マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

社会科学を学ぶ際には、かつての博物学のように

 今日の社会科学は――誤解を恐れずに、あえて大雑把にいえば――今日の自然科学にとっての昔日の博物学のようではないか、と――

 僕は思っています。

 

 きのうまでの『道草日記』で、社会科学と自然科学との境界が無くなることの大切さを繰り返し述べてきましたが――

 その境界が無くなるときに、社会科学は、今日の自然科学にとっての昔日の博物学のような役割を終えるであろう、ということです。

 

 博物学とは、自然界に存在する事物の収集や分類を主な営みとする学問です。

 英語では、

 ――Natural history

 といいます。

 直訳をすれば、

 ――自然史

 です。

 

 おそらく、「博物学」より「natural history」のほうが、わかりやすいのです。

 これになぞらえるならば、今日の社会科学は、

 ――Social history

 です。

 直訳をすれば、

 ――社会史

 となります。

 

 博物学(natural history)は、19世紀までに最盛期を迎えました。

 その後、20世紀にかけて今日の自然科学が隆盛を迎えるにつれ、徐々に衰退をします。

 21世紀の現在、「博物学」という学問は残っていないとされています。

 

 同じことが、今日の社会科学――つまり、“社会史(social history)”――にも起こるでしょう。

 おそらくは、21世紀から22世紀にかけて、徐々に衰退をしていきます――かつての博物学――つまり、“自然史(ntural history)”――が、そうであったように――

 

 今日、僕らが社会科学を学ぶ際には、19世紀以前の人たちが博物学を学んだように、学ぶ必要がある、と――

 僕は考えています。

 

 博物学は、自然を研究する上で、当時の科学技術等に限界があったために今日の自然科学のような研究手法をとりづらかった時代には、大変に有効でした。

 博物学の発展があったからこそ、今日の自然科学の隆盛があるといってよいでしょう。 

 

 そのような意味で、今日の社会科学は大変に有効なのです。

 “脳の神経模様”を研究データとして使用できないという科学技術等の限界があるために、社会を研究する上で、他に適切な学問はありません。