人の営みには、その営みを行っている人の考えや気持ちというものが、常に介在している、ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
よって、人の営みに直に関わっている事物を対象とする人文科学では、その営みを行っている人の考えや気持ちを浮き彫りすることで、真理の一端が、ある程度は掴めるのですが――
ここで、
――人
とは何かを真摯に見つめ直してみると――
ちょっと困ったことになります。
いうまでもなく、
――人
とは、
――生物種のヒト
です。
そのヒトは、少なくとも自然科学的な観点からは、脳と体との相互作用によって自身の行動を決めているとされています。
その相互作用の過半は、ヒトの意識の及ばぬところにあると考えられています。
しかも、ヒトの脳や体は自然物であって、人工物ではありません。
よって、人文科学は、いくら対象を人の営みに直に関わっている事物に限っていても、その事物には、人の営みに直に関わっているわけではない事物――例えば、ヒトの脳や体――が、多少なりとも関与しているはずなのです。
具体的にいうならば――
例えば、ある小説の登場人物が作中で自殺を遂げているとします。
その登場人物は、なぜ自殺を遂げたのか――人文科学的には、その小説の全文を詳細に読解することで、自殺に至った心理の一端を掴もうとするわけですが――
その心理には、本当は、ヒトが自殺に至る一般的な精神病理ないしは病態生理が必ず含まれているわけで――
よって、当然ながら、精神医学や脳科学・神経科学の知見を加味しないわけにはいかないはずですが――
そうした知見を加味した途端、その学問は、人文科学的ではなくなってしまう――少なくとも「純粋に人文科学的である」とはいえなくなってしまう――
よって、人文科学が純粋に人文科学的であろうと思ったら、例えば、ヒトが自殺に至る一般的な精神病理や病態生理――精神医学や脳科学・神経科学の知見――というものは、どうしても無視をすることになる――
このことは何を意味しているのか――
――人文科学は、多少なりとも虚構的にならざるをえない。
ということを意味しています。
ここでいう「虚構的」とは、例えば、
――数学は虚構的である。
という意味での「虚構的」であって――
人文科学の存在意義を否定する意図などは毛頭ありません。