マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

親の心に余裕がなければ、いいにくいこと

 いわゆるマシュマロ・テストに関する近年までの知見を総合すると、

 ――子どもに大人が「まず学ばせたい」と思うことは裕福な家庭環境で暮らすことの心地よさである。

 という結論――まさに、

 ――身も蓋もない結論

 に至る、ということを――きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この結論は――

 おとといの『道草日記』で述べたこと――

 つまり、

 ――子どもに大人が「まず学ばせたい」と思うことは人文科学である。

 ということと、矛盾はしていません。

 

 人文科学は、社会科学や自然科学と比べると、実用性の感じられにくい学問です。

 子どもの目線でいえば、いわゆる主要3教科――国語(母国語)、算数(数学)、英語(外国語)――は、社会科や理科と比べると、将来、何の役に立つのかが、わかりにくい――

 よって、子どもに「国語や算数や英語をまず学ばせたい」と思えるような大人は、ある程度、裕福な家庭環境を築いているに違いないのです。

 それは、大人の心に余裕がなければ、なかなかいいにくいことだからです。

 例えば、自分の子どもに向かって、将来、何の役に立つのかが、わかりにくい教科を、

 ――まずは、しっかり頑張ろう。

 といえる親は――あるいは、

 ――何だったら、お父さんやお母さんも一緒に学び直してみるよ。

 といえる親は、やはり、ある程度、裕福な家庭環境を築いていて、心にも余裕があるに違いありません。

 

 もちろん――

 その背景にある本質的な認識のほうが大切でしょう。

 

 その認識とは、

 ――社会科学も自然科学も大切ではあるが、それら学問の基礎になるのは人文科学の素養である。

 という原理の認識です。

 子どもの目線でいえば、

 ――社会科も理科も大切だけど、社会科や理科がわかるには、国語や算数や英語がわからないとダメだ。

 となります。

 

 なぜ、これが原理なのか――

 

 社会科学の主題は、

 ――社会を人は、いかに理解するべきか。

 です。

 また、自然科学の主題は、

 ――自然を人は、いかに理解するべきか。

 です。

 どちらも始点は、

 ――人

 です――もっといえば、

 ――人の気持ちや考え

 です。

 そして、それは、3日まえの『道草日記』で述べた通り、人文科学の主題です。

 よって、

 ――人文科学が社会科学や自然科学の基礎になることは原理的である。

 といえます。