――「人文科学・社会科学・自然科学」の区分は便宜的である。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
医学に携わっていると、この区分は、本当に、
(どうでもいい)
と感じられます。
例えば、医学を実践していて、深刻な問題に直面したときに、
――今、この目の前の患者をよくすることができるなら、何でもいいから、教えてくれ。
となるのですね。
この思いは、古今東西、医学に携わる全ての者たちに共通するように感じます。
が――こうした思いを、医学に携わる者が、心の底から滾(たぎ)らせるには、ただ、ひたすら医学の実践しかないのですね。
座学ではダメなのです。
事前に、どんなに深く広く物事を学んでいても、この思いを本当の意味で抱くことはできないのです。
目の前の患者の病を癒そうと思い、あれこれと考え、調べ、試行錯誤を繰り返し、結局、癒すことが叶わずに途方にくれる――そういう経験を積み重ねていかないと、
――何でもいいから、教えてくれ。
とは、なりません。
これと同じような苦悩は、例えば、哲学や神学や法学に携わる人たちにも、きっとあることでしょう。
そして、その苦悩は、座学ではなく、やはり実践に端を発しているはずです。
医学はもちろん、哲学や神学や法学の実践は、子どもには、なかなかできません。
これら学問の真の実践は、社会に出て大人であると広く認められてからでないと、なかなかできません。
冒頭、
――「人文科学・社会科学・自然科学」の区分は便宜的である。
と述べましたが――
誤解を恐れずにいうと――
ここでいう「便宜的」の真意は、
――子どものため
です。
社会に出て大人であると広く認められる前の子どもが、自分自身のことや世の中のことを深く広く学ぶための便宜的な区分――それが、「人文科学・社会科学・自然科学」の区分であると、僕は思っています。