――意識
の性質は、舞台を明るく照らす機能に似ている――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
この「舞台」の比喩は、意識が語られる際に、よく用いられるのですが――
決して意識の全てを表現しえたものではありません。
おそらくは、意識の変化――意識混濁や意識狭縮――から直に推測されうる性質について表現したものに過ぎません。
つまり、心が眠っていない状態では、ときに、だんだんボンヤリしてきたり、あるいは、ごく近くのことしかわからなくなったりすることがある、という点に着目をされた結果、
――意識には、少なくとも清明性や可及性がある。
と述べられたに過ぎません。
実際には、意識について、もう1つ着目をされている変化があります。
――意識変容
と呼ばれる変化です。
これについては、説明がやや煩雑になるので、日を改めて述べます。
このように、
――意識
は、
――心が眠っていない状態
と捉えられることによって、多少なりとも具体的な言説の対象となりうるのですが――
ここで大切なことは、「意識」も「心」も、あくまで主観的な視点からのみ語られている、ということです。
「意識」や「心」が客観的な視点から語られることは、ふつう、ありません。
客観的には語りようがないからです。
例えば僕は、僕自身の意識の清明性や可及性なら直接的に語ることができます――が、僕以外の誰かの意識について、その清明性や可及性を直接的に語ることはできません。
(たぶん僕のと同じだろう)
と想像をし、その想像を前提として間接的に語っているだけです。
強いていえば、間主観的に語っている、ということになります。
「意識」や「心」については、主観的に語られている場合と客観を偽装されて語られている場合と――つまり、主観的に語られている場合と間主観的に語られている場合と――が混在していますので――
注意が必要です。