マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

この世をば我が世とぞ思ふ望月の……

 日本語を用いるのであれば、

 

  世界 ・ 身体 ・

  ・ 自我 ・ 精神

 

 という環で考えるよりも、

 

  世 ・ 身 ・

  ・ 我 ・ 心

 

 という環で考えるほうがよいのではないか、ということを――

 おととい以降、『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 ……

 

 ……

 

  世 ・ 身 ・

  ・ 我 ・ 心

 

 という環をみていて――

 思い浮かんだ和歌があります。

 

 平安中期の摂政・藤原道長が詠んだとされる和歌です。

 

  この世をば

  我が世とぞ思ふ

  望月の

  欠けたることも

  無しと思へば

 

 すぐにおわかりのように、

 

  世 ・ 身 ・

  ・ 我 ・ 心

 

 にある4字のうちの2字――「世」と「我」と――が用いられています。

 

 この和歌は一般に評判がよくありません。

 ――この世は私のためにあるようなものだと思うのだ、満月に欠けたところがないように私は今とても満足している。

 という意味で解釈されているからです。

 

 かなり驕(おご)り高ぶった和歌のようですね。

 

 なぜ、そのように解釈されているのか――

 

 それは――

 この和歌が、藤原道長に批判的な同時代人によって書き残されているからです。

 

 その「同時代人」というのは、藤原実資(さねすけ)という貴族です。

 当時、藤原道長の政権にありながら、いたずらに藤原道長へ諂(へつら)うことをせずに、ことあるごとに筋を通した教養人として知られています。

 その藤原実資が残した日記に、先ほどの和歌が記されているのです。

 この経緯を知っている人たちが、

 ――藤原実資は後世に藤原道長の驕慢さを伝えるために「この世をば……」の和歌を書き残したに違いない。

 と思うのは当然のことといえましょう。

 

 が――

 僕は、

 (必ずしも、そうではなかったかもしれない)

 と考えています。

 

 節操のない人の欲望には限りがありません。

 

 本当に驕り高ぶっている人は――

 たとえ満月を見上げたところで、

 ――望月の欠けたることも無しと思へば――

 とは、とうてい思えないのではないか――

 

 もっと貪欲に次を狙っていくのではないか――

 

 そう思えてならないのです。