――かたやぶり
と、
――かたなし
との違いは何か、について――
きのうの『道草日記』で述べました。
僧侶で教育者の無着成恭さんが子ども向けのラジオ番組で語られた――と、されているご指摘、
「そりゃぁ、あんた。型(かた)がある人間が型を破ると『かたやぶり』、型がない人間が型を破ったら『かたなし』ですよ」
については――
厳密には――
注釈が必要でしょう。
ご指摘の要点は明快です。
――“型”を身につけた者が“型”を破るから「かたやぶり」であって、“型”を身につけていない者が“型”を破ったら、それは、ただの「かたなし」である。
ということです。
ここでいう、
――かたやぶり
は、
――型破り
ですが――
――かたなし
は、
――“型”無し
と、
――形(かた)無し
とが掛けられた言葉です。
必要な注釈は2つ――
1つは、
――“型”無し
は、たんに、
――“型”が無いこと
を縮めていった言葉であり、
――形無し
は、
――本来の形(かたち)が損なわれていること、台無しになっていること
という意味の言葉である――
ということです。
つまり、
“型”無し = 形無し
ということですね。
もう1つは、
――型破り
というのは、あくまでも誉め言葉であって――
その栄誉は、
――すでに“型”を身につけている者だけに与えられる。
ということです。
“型”を身につけていなくても、“型”を破ることはできます。
理屈の上では、“型”を身につけていようと身につけていまいと、「型破り」は言葉として成り立ちえます。
が――
“型”を身につけずに“型”を破ったところで、
――誰も褒めはしない。
というのが、無着成恭さんのご指摘の本質でした。
これら2つの注釈を要する含意を――
易しく短い言葉で端的に示されたことは、
(まことに見事――)
というほかはありません。