マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

かなり“逸脱的思考”っぽい流れ

 ――批判的思考

 以外の“自由な思考”の例として、

 ――逸脱的思考

 というのが挙げられる――

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 簡単にいうと、

 ――論理的な整合性に拘らず、自由な連想に基づき、何となく進めていく思考

 です。

 

 ――随想的思考

 とか、

 ――雑談的思考

 とかと呼ぶほうが、受け入れられやすいかもしれない――

 ということも――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 一方――

 

 8月14日の『道草日記』で、

 ――かたやぶり

 と、

 ――かたなし

 との違いの話を述べました。

 

 僧侶で教育者の無着成恭さんが、ラジオで、

 「そりゃぁ、あんた。型(かた)がある人間が型を破ると『かたやぶり』、型がない人間が型を破ったら『かたなし』ですよ」

 と、おっしゃったのを――

 若き日の歌舞伎役者・十八代目中村勘三郎さんが聴いていらして――

 当時、劇作家で演出家の唐十郎さんが催された破天荒な舞台に強く惹かれていたお気持ちを巧く鎮めることができた――

 という話のことです。

 

 この話は――

 僕にいわせれば、

 ――かなり“逸脱的思考”っぽい流れ

 になっています。

 

 無着成恭さんは、ラジオのマイクの前で、べつに中村勘三郎さんのことを念頭に置いて発言をされたわけではなかったはずですし――

 中村勘三郎さんが唐十郎さんの舞台に見出された破天荒が、本当に歌舞伎の原点に通じていたといえるかどうかは、定かではありません。

 

 批判的にきいたり懐疑的にみたりすると――

 途端つまらない話になります。

 

 むしろ、

 ――いいかげんな話

 との印象を強めかねない――

 

 が――

 少なくとも、中村勘三郎さんにとっては――

 この話は確かで、面白く、大切な話であったはずです。

 

 何よりも――

 ご自身の芸歴の指針の1つになっていたに違いありません。

 

 中村勘三郎さんは――

 おそらく――

 この話をメディアに語られるまでに――

 どこかで――

 僕のいう“逸脱的思考”をなさっていたはずです。

 

 少なくとも――

 この話を、“批判的思考”や“懐疑的思考”だけでまとめあげることは、ありえなかったに違いないのです。