マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ボヤポン

 ――豊臣秀吉は日本人の指導者に向いていた。

 という話を――

 ここ3~4日の『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 その豊臣秀吉よりも、さらに日本人の指導者に向いていたと考えられるのが――

 徳川家康です。

 

 豊臣秀吉は、

 ――ニコポン

 でした。

 

 徳川家康は、おそらく、

 ――ボヤポン

 です。

 

 「ボヤポン」というのは、僕の造語です。

 

 「ニコポン」が、

 ――ニコニコと笑いながら目下の者の肩にポンポンと手を置きつつ、親し気な言葉をかけること

 であるのに対し――

 「ボヤポン」は、

 ――ボヤきつつも、まるで目下の者の肩にポンポンと手を置くかのように、親し気な言葉をかけること

 を指します。

 

 徳川家康は、ことさらにニコニコすることも、わざとらしくポンポンすることもなかったようですが――

 これぞという人物に対して、ここぞという時期に、あえて親し気な言葉をかけることの大切さを、よくわかっていたようです。

 

 極端な例は、伊達政宗です。

 

 伊達政宗仙台藩の祖となった人物で――

 戦国末期においても、日本列島に君臨する野心を最後まで捨てなかった人物といわれています。

 

 ほぼ同世代であった織田信長豊臣秀吉徳川家康の次の世代にあたり――

 その分、いわゆる、

 ――天下取り競争

 には出遅れましたが――

 出遅れただけで、もう30年ほど早く生まれていれば、日本列島に君臨したかもしれない人物といわれています。

 

 いわゆる“大坂夏の陣”で、豊臣秀吉の遺児であった豊臣秀頼自死に追い込まれ、豊臣秀吉の血脈が途絶えた後――

 ほどなくして、今度は仙台の伊達政宗に謀叛の噂が立ちました。

 

 噂の出所は、徳川家康の六男・松平忠輝であったようです。

 この人物は伊達政宗の婿になっていました。

 

 徳川家康は「政宗、謀反」の話を松平忠輝から直に聞いたようです。

 

 その後――

 徳川家康は、「政宗、謀反」の噂をあえて世間に広め、伊達政宗自身の耳にも届くようにした上で――

 仙台から伊達政宗を自身の居城(駿府)へ呼び寄せたと考えられています。

 

 このとき、徳川家康は70代――当時としては著しく高齢で、しかも末期の病床にあったといいます。

 おそらく死期は悟っていたでしょう。

 

 そうした状態で、わざわざ伊達政宗を居城まで呼び寄せた――

 

 もし、呼び出しが無視をされれば、大坂で豊臣家を滅ぼしたように、仙台で伊達家を滅ぼそうとしたことは、ほぼ確実です。

 

 が――

 徳川家康は、伊達政宗戦国大名としての資質の高さに、十分に警戒をしていました。

 

 ――できれば仙台に兵を出したくない。

 と考えたようです。

 

 自身は死の床に就いています。

 もし、仙台へ攻め下るなら、大坂のときとは違って、跡継ぎの徳川秀忠が総大将とならざるをえない――

 

 ――秀忠では勝てぬかも知れぬ。

 そう本気で心配をしていた可能性があります。

 

 大坂夏の陣で、徳川家康は、絶対有利の局面であったにもかかわらず、自分の本隊に敵の襲撃を受けました。

 戦争には不確定要素が多いことをあらためて思い知ったはずです。

 

 よって――

 徳川家康は最期の賭けに出たのでしょう。

 

 あえて「政宗、謀叛」の噂を広めた上で、当人を居城へ呼び寄せた――

 実際に来るかどうかを見極めたのです。

 

 その呼び出しに、伊達政宗は応じました。

 

 家来たちの多くは反対をしたといいます。

 が、それを押し切って、伊達政宗は、わずかな家来を伴い、病床の徳川家康を見舞ったのです。

 

 これによって――

 徳川家康伊達政宗を信じることにしました。

 

 かつての“天下取り競争”の相手に、あえて後事を託したのです――おそらく、「政宗、謀反」と公言をした自身の息子の至らなさをボヤきながら――

 

 ……

 

 ……

 

 徳川家康は、豊臣秀吉の“ニコポン”が有効であったことを見抜いていたでしょう。

 よって、それを自分も施した――

 

 が――

 ただ豊臣秀吉の“ニコポン”を真似したのではなく――

 自分流に仕立て直した――

 

 ――ニコポン

 ではなく、

 ――ボヤポン

 に仕立て直した――

 そういうことであったと考えられます。