マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

清の太宗ホンタイジは、“喜・怯”領域に配される

 ――“感情の分布図”の“憂・勇”領域に配される人物として、清の太宗ホンタイジはどうか。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で問いました。

 

 結論からいうと――

 ホンタイジは、“憂・勇”領域ではなく、“喜・怯(きょう)”領域に配される人物ではなかったか、と――

 僕は考えています。

 

 つまり――

 豊臣秀吉と同じです。

 

 ただし――

 豊臣秀吉ほどに喜気の強い人物ではなかったでしょう。

 

 怯みやすさという点でも――

 そんなに強くなかったと考えられます。

 

 おそらくは、

 ――強いていえば「やや怯みやすい」――

 という程度です。

 

 よって――

 ホンタイジは――

 “感情の分布図”の原点――“怯・勇”軸と“憂・喜”軸との交点――に近い位置に配されるという意味では――

 徳川家康伊達政宗に似ていたと考えられます。

 

 なぜホンタイジは“喜・怯”領域に配されると考えられるのか――

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 ホンタイジには、

 ――恕

 の感情が強く感じられるからです。

 

 9月15日の『道草日記』で述べたように、

  恕 = 怯 + 喜

 です。

 

 ホンタイジのどういうところに、“恕”が強く感じられるのか――

 

 ……

 

 ……

 

 自分に背いた相手を一度ならず二度までも許すところです。

 

 その典型例は、李氏朝鮮の王・仁祖でしょう。

 

 李氏朝鮮ヌルハチに恭順の意を示していましたが――

 ホンタイジが後を継ぐと、掌を返しました。

 

 そこで、ホンタイジ朝鮮半島へ軍勢を差し向け、李氏朝鮮の首都を攻め落とし、再び恭順の意を示すように求めました。

 その結果、

 ――後金(清)を「兄」とし、朝鮮を「弟」とする。

 との約定が結ばれたのです。

 

 ところが――

 その10年後に、仁祖は再びホンタイジに背きます。

 

 ホンタイジは、今度は自ら軍勢を従え、朝鮮半島へ攻め入り、李氏朝鮮の首都を取り囲んで、仁祖に降伏を呼びかけました。

 その呼びかけに仁祖は応じます。

 仁祖はホンタイジに二度まで背きました――ふつうなら許されないところです。

 が、ホンタイジは仁祖を再び許すのです。

 

 もちろん――

 この寛容には、ホンタイジの政略的計算が隠れていたはずです。

 

 が――

 そもそもホンタイジの気質が寛容でない限りは、決して起こりえないことです。

 

 僕がホンタイジに“恕”の感情を強く感じるというのは――

 そうしたことによります。