――清の世祖・順治(じゅんち)帝は、“憂”の中に“勇”を秘めていた指導者であり、不安を感じやすい人々が多数派を占める日本列島では、なかなか現れにくい指導者であった。
ということを――
10月29日の『道草日記』で述べました。
順治帝の子である康熙(こうき)帝も、
――“憂”の中に“勇”を秘めていた――
という点は似ています。
が――
逆に――
よって――
康熙帝については、
――“憂”の中に“勇”を秘めていた――
というよりは、
――“勇”の陰に“憂”を帯びていた――
というほうが適切でしょう。
いずれにせよ――
初代のヌルハチが、“勇・喜”領域に配され、二代のホンタイジが、“喜・怯(きょう)”領域に配される指導者であったのとは違って――
三代の順治帝も四代の康熙帝も、ともに“憂・勇”領域に配される指導者であった――
とは、いえます。
では――
五代目は、どうであったか――
……
……
清の五代目の君主は、
――雍正(ようせい)帝
といいます。
康熙帝の子です。
廟号は、
――清の世宗
です。
雍正帝が即位をしたのは、四十路に入ってからでした。
しかも――
当初は、後継者とは目されていませんでした。
父・康熙帝によって、異母兄が後継者に定められていたからです。
が――
“満州地域”には、あらかじめ後継者を定めておくという慣習がありませんでした。
当然ながら――
清の皇族も、そのような慣習には馴染んでいませんでした。
10月28日の『道草日記』で――
清の二代目の君主・太宗ホンタイジが急死を遂げた際に、ホンタイジの子ホーゲと弟ドルゴンとが後継の座を争いかけ、最終的には、優勢であったドルゴンが折れることで、まだ幼かったホンタイジの子フリン――後の順治帝――が後継者に決まった――
との経緯を述べましたが――
このような悶着になったのも、
――後継者をあらかじめ定めておくことはしない。
という“満州地域”の慣習があったからです。
そのような慣習を破る形で――
康熙帝は、自身が20代前半のうちに、生後間もない第2皇子を後継者に定めていました。
が――
歳月が経つうちに――
他の皇子たちの多くが、早々の後継指名に疑問を抱くようになります。
後継者に定められた当の第2皇子も、他の皇子たちからの嫉妬や中傷が心理的な負担となったためか、周囲に陰惨な意地悪をしたり、贅沢な嗜好に耽ったりするなど、日頃の行いが乱れていったようです。
そうなれば、
――第2皇子では後継者は務まらない。
との批判も、たんなる中傷ではなくなってきます。
康熙帝は、第2皇子を後継指名から外す決断をしました。
ときに康熙帝、50代半ば――第2皇子は30代前半でした。
その後、一度は許すのですが――
後継の座に舞い戻った第2皇子が、宮廷内に自身の派閥を作ろうとしたことを察すると、再び後継指名から外します。
第2皇子が派閥を作れば、他の皇子たちも派閥を作るようになり、皇子同士の権力闘争が激しくなるのは目にみえています。
皇子同士の権力闘争を、康熙帝は何が何でも避けたかったようです。
また――
幼くして即位をした康熙帝には、30代になっても即位が叶わない皇子の気持ちがリアルにはわからなかった――
ということも、あったに違いありません。
後継指名を2度も反故にしたことが堪えたのか――
その後の康熙帝が再び誰かを後継者に定めることはありませんでした。
すっかり老境に達していた康熙帝は、
――それでも、後継指名は必要です。
との諫言を受ける度に怒りを露わにしたと伝えられます。
このような点にも――
康熙帝の気質の暗さが感じられなくもありません。
第2皇子の後継指名が2度も外されるという混沌とした後継者争いで――
最後に勝ち残ったのが、第4皇子の雍正帝でした。
その勝ち残り方は――
実に際どいものでした。
……
……
続きは、あす――