マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

雍正帝の気質は、祖父・順治帝にそっくりではなかったか

 ――清の世宗・雍正(ようせい)帝の気質には、父・康熙(こうき)帝とは少し違った暗さがある。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 康熙帝は――

 おとといの『道草日記』で述べたように、

 ――“勇”の陰に“憂”を帯びていた――

 と、いえます。

 

 一方――

 康熙帝の父である順治(じゅんち)帝――雍正帝の祖父――は、

 ――“憂”の中に“勇”を秘めていた――

 と、いえます。

 

 では――

 雍正帝は、どうか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく、祖父・順治帝の、

 ――“憂”の中に“勇”を秘めていた――

 のほうに、ずっと近いでしょう。

 

 雍正帝は――

 きのうの『道草日記』でも述べたように――

 どちらかといえば、父・康熙帝ではなく、祖父・順治帝に似ている、と感じられます。

 

 が――

 すっかり同じではありません。

 

 “憂”についていえば、雍正帝の“憂”は、順治帝の“憂”と同じくらいに強かったとはいえませんし――

 “勇”についていえば、雍正帝の“勇”は、順治帝の“勇”より、ずっとわかりにくいでしょう。

 

 とはいえ――

 この違いは、必ずしも本質的とはいえません。

 

 順治帝の時代と雍正帝の時代とでは――

 国の内外の情勢が――清の皇朝を取り巻く内政や外交の諸事情が――かなり違っています。

 

 簡単にいうと――

 順治帝の時代のほうが、雍正帝の時代よりも、ずっと不安定でした。

 

 加えて――

 年齢が違います。

 

 順治帝は幼くして即位をし、三十路を待たずに亡くなりました。

 雍正帝は四十路に入って、ようやく即位をしています。

 

 どちらも皇朝の実権を握った期間は10年余りなのですが――

 その10年余りを過ごした際の年齢が異なるので、両者の“憂”や“勇”の違いに何か本質的な意味を見出そうとする試みは徒労に終わるでしょう。

 

 極端なことをいえば――

 もし、順治帝が四十路に入って即位をしていたら、雍正帝のようになっていたかもしれず――

 もし、雍正帝が幼くして即位をしていたら、順治帝のようになっていたかもしれないのです。

 

 よって――

 雍正帝の気質は、生来、祖父・順治帝の気質にそっくりではなかったか、と――

 僕は考えています。

 

 きのうの『道草日記』で――

 若き日の雍正帝は、せっかちな性格や精神的な動揺が目立ち、父・康熙帝から叱責を受けていたらしい――

 と述べました。

 

 通常、せっかちな性格が目立つのは“喜”の強い人物で、精神的な動揺が目立つのは“怯(きょう)”の強い人物です。

 

 よって――

 この点だけをみたら、雍正帝は“喜・怯(きょう)”領域に配されることになりますが――

 四十路になって即位をしてからの雍正帝には、“喜”も“怯”も感じられません。

 

 兄弟たちを失脚に追い込み、功臣の非をも咎めて殺し、密偵を放って綱紀を正し、言論弾圧では容赦をしない――

 そんな施政から、“喜”や“怯”を感じとるのは難しいでしょう。

 

 康熙帝が子・雍正帝にみた「せっかちな性格」とは、おそらく、十分に調べたり考えたりせずに結論を出そうとする迂闊さであり、「精神面の動揺」とは、おそらく、怒りの感情を剥き出しにしてしまう不用心さです。

 いずれも、ある程度の人生経験を積むことで十分な改善が期待できます。

 

 それら欠点を四十路に入るまでに直しきったことで――

 雍正帝は、父・康熙帝の後継の座を巡る争いに最後まで脱落をしないで済んだ――

 と、いえるのではないでしょうか。