――“国家百年の計”の教育
について、
――国家の安全保障
の観点を抜きにして論じたところで、意味はない――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
――国家の安全保障
というのは――
極論をすれば、
――国家の存亡
が問われる状況で、
――どんな人材に国家の舵取りを任せるのか。
の問いへの答えです。
この問いへの答えは、おそらくは明白です。
――国家の存亡が問われるような苦境を正しく見抜き、その苦境から抜け出すための打開策を講じられる人材に任せるのがよい。
です。
このような人材は――
それまでに政権を担っていた人材の過ちを糺し、正せることが必要です。
が――
それだけでは不十分で――
そのような人材が、それまでに政権を担っていた人材に代わって新たに政権を担えるような制度も必要なのです。
つまり、
――政権を担う人材の交代が常態的に保証をされている制度
ですね。
明治政府が失敗をしたのは――
この、
――政権交代の常態化の制度
の確立でした。
大正期から昭和前期にかけて――
いわゆる、
――憲政の常道
という慣例――政権交代の常態化を保証はしないまでも、支持はする慣例――が根付きかけたのですが――
その慣例は脆くも崩れ去ってしまったのです。
このことによって――
明治政府は、自らの過ちを自らの手で糺し、糺す術を失い――
以後の10年余りのうちに、「太平洋戦争」の苦汁を舐めるに至ります。
五・一五事件は、かえすがえすも酷い事件でした。
当時20代であった海軍の将校らが、時の内閣総理大臣・犬養毅を官邸に襲い、銃で撃ち殺してしまったのです。
背景にあったのは、12月22日の『道草日記』で触れた統帥権干犯問題であったと考えられます。
昭和5年、時の浜口雄幸内閣が海軍の反対を押し切って海軍の戦力削減に踏み切ったことで、海軍の内閣に対する負の感情が滾っていました。
折からの大不況が、20代の将校らに「政党政治の腐敗糾弾」の口実を与えました。
――農村では娘の身売りまでされているのに、政権闘争に明け暮れるとは何事か!
というわけです。
不況下で起こっている事象の表層だけをみれば、将校らの言い分にも理があるように感じられます。
それゆえに、当時の国民の過半は将校らの犯行を寛大な目でみたといわれています。
政治の一部である外交の、そのまた一部である軍事に関わっていた青年らが、政治の全体を司っていた政権の首班を殺してしまったのです。
どう考えても筋の通らないことが、通ってしまった――
そして――
その理不尽の深刻さに、国民の過半が気づけなかった――
それは――
明治政府による、
――“国家百年の計”の教育
の失敗だけでなく、
――国民教育
の失敗をも示しているといえます。
12月24日の『道草日記』で触れたように――
明治政府による、
――国民教育の普及
についての功績は大といえますが――
その質は――
必ずしも十分ではなかったといえます。