――明治政府は発足前から集団指導体制であった。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
――江戸攻略の時点で、すでに集団指導体制であった。
と――
……
……
このように述べると、
――集団指導体制は悪い。
と主張をしているように思われるかもしれませんが――
そうではありません。
どんな政体――政治の体制――にとっても――
集団指導体制への移行は必然です。
徳川幕府を例にとりましょう。
徳川幕府は、徳川家康という絶対的な指導者によって樹立をされた政体です。
創成期の徳川幕府において、徳川家康は、初代将軍として、あるいは徳川宗家の家長として、
――何でも一人で決めた。
といわれています。
それが――
三代将軍・徳川家光の頃には、すっかり集団指導体制へ移行をしていたのです。
徳川家光は、
――自分では何一つ決めなかったのではないか。
などといわれたりしています。
以後――
徳川幕府は、様々な例外時期はあるにせよ、基本的には集団指導体制であったと考えられます。
つまり――
政体というものは、概して、創成期は超人(カリスマ)指導体制であり、守成期に集団指導体制に移ろっていく傾向にあります。
そして――
ひとたび政体の存続に危機が訪れると、超人指導体制へ戻っていく――そのような可塑性が見出せるのも普通のことです。
もともと超人指導体制で始まっていれば――
それへ戻ることに、とくに無理はないのですね。
が――
明治政府には超人指導体制の時期がありませんでした――初めから集団指導体制であった――
それゆえに、昭和前期になって、
――統帥権干犯問題
が持ち上がった、と――
僕は考えています。
――統帥権干犯問題
については、12月22日の『道草日記』で述べました。
簡単に述べ直すと、
――政治の一部である外交の、そのまた一部である軍事の裁量権者が、政治の裁量権者を脅かす、という問題
です。
超人指導体制では、ある超人的な指導者が、政治・外交・軍事を一手に引き受けます。
徳川幕府においては、徳川家康が今日の「政治」「外交」「軍事」の概念の全てを実質的に単独で担っていたと考えられます。
一方――
集団指導体制では、複数の指導者たちが、政治・外交・軍事を手分けして引き受けます。
明治政府においては、内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣のほか、参謀総長や軍令部総長を始めとする陸軍や海軍の最高幹部らで裁量権の分担をしていました。
もし――
明治政府が、創成期において、徳川幕府にとっての徳川家康のような、絶対的な指導者を擁していたならば――
守成期においても、内閣総理大臣が外務大臣や陸軍大臣や海軍大臣の任免権はもちろんのこと、参謀総長や軍令部総長の任免権さえも握る制度になっていたはずです。
過去に、政治・外交・軍事を実質的に単独で担っていた人物が一人でも実在をしていれば、
――内閣総理大臣が軍の最高幹部らの任免権を握るのは当たり前である。
と、ほとんどの人々が納得をしたに違いないからです。
が――
そういう人物が、過去の明治政府には、あいにく誰もいませんでした。
そういう人物に、西郷隆盛なら、なりえたかもしれませんが――
結果的に、なりませんでした。
よって――
明治政府――正確には、明治期、大正期、昭和前期の大日本帝国政府――では、昭和前期になって、海軍の最高幹部らから、政権の中枢に対し、
――統帥権の侵害である!
との奇怪な主張が公然と噴き出る事態となったのです。
軍事が外交の一部であり、外交が政治の一部であるのですから――
常識で考えれば、「統帥権」は内閣総理大臣に帰属をしていたはずです。
が――
その常識が、明治政府においては、江戸攻略の時点で、すでに曖昧になっていました。
明治政府が江戸攻略の軍を発したときに――
おそらくは「統帥権」の概念も、その萌芽くらいは生じていたはずですが――
では――
それを握っていたのは、はたして誰であったのでしょう?
明治天皇でしょうか。
有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王でしょうか。
西郷隆盛でしょうか。
それとも、他の“維新の志士”たちでしょうか。
その答えは、
――形式的に明治天皇が握っていて、一時的に有栖川宮熾仁親王が預かり、実質的には西郷隆盛ら“維新の志士”たちが握っていた。
ということになるのでしょうか。
いずれにせよ――
そんな複雑な答えになってしまうこと自体が、そもそも、
――異様
なのです。
――明治政府の異様
といってもよいでしょう。