マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

明治政府はクーデターで始まっている

 ――明治政府の異様

 について、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 なぜ明治政府は異様であったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 明治政府がクーデターで始まっていることと関係があるでしょう。

 

 この辺りの経緯については――

 12月29日の『道草日記』で、以下のように述べています。

 

 ――薩摩藩長州藩の下級武士らと朝廷の公家らが急ぎ話し合って、将軍・徳川慶喜を筆頭とする徳川幕府の関係者をほぼ全て締め出した上で、新たに政権を担う意思を示した。

 

 簡単にいうと、

 ――急ぎ話し合って、クーデターを起こし、徳川幕府の関係者を締め出した。

 ということなのですね。

 

 ポイントは、

 ――明治政府は正々堂々と挑んで政権を勝ち取ったわけではなかった。

 ということです。

 

 例えば、徳川幕府は――

 初代将軍の徳川家康が天下分け目の戦い――関ケ原の戦い――で勝利を収め、衆目の下に政権を勝ち取りました。

 

 明治政府は違うのです。

 衆目の及ばないところで政権を掠め取ったようなところがあります。

 

 当時――

 日本列島は西欧列強の外交圧力にさらされていました。

 

 ――この難局は、徳川幕府では乗り切れない。

 との声が、薩摩藩長州藩の下級武士たち――いわゆる“維新の志士”たち――の間で、日に日に高まっていました。

 

 政体――政治の体制――の刷新の必要性が叫ばれていたのです。

 

 興味深いのは――

 当の徳川幕府までもが――

 その必要性に、部分的にせよ、理解を示していたことです。

 

 それゆえに――

 最後の将軍・徳川慶喜は、朝廷に対し、

 ――大政奉還

 を申し出ます。

 

 ――大政奉還

 については、12月29日の『道草日記』で述べました。

 

 簡単に述べ直すと――

 天皇を戴く朝廷に対し、

 ――初代将軍以来お預かりをしてきた政権をお返ししたい。今後の政体をどのようにするかはご一任をする。

 との申し出でした。

 

 もちろん――

 徳川慶喜以下、本気で政権を返すつもりはなかったと考えられます。

 

 その申し出は――

 当時の朝廷に政権を担う実力がなかったことを十分に見越した上での申し出であったのです。

 

 つまり――

 徳川幕府は、朝廷が、

 ――そんなことをいわずに、引き続き政権を担ってくれ。

 と泣きついてくることを見越していたのですね。

 

 ――どうせ戻ってくる。

 と思っているのに――

 なぜ政権を返したのか―― 

 おそらく、

 ――政体を一から見直すくらいのことをしないと、西欧列強の植民地にされてしまう。

 との危機感が幅広く共有をされていたからです。

 

 “維新の志士”たちに象徴をされる反徳川幕府の勢力はもちろんのこと――

 徳川幕府の首脳陣でさえも、「徳川幕府」という政体には限界を感じていたようなのですね。

 

 政権をいったん返すことで、超急進的な改革を行い、新たな政体へ生まれ変わった上で、引き続き政権を担う――

 そのつもりで、徳川幕府は、あえて、

 ――大政奉還

 に踏み切ったのです。

 

 おそらくは――

 いわゆる、

 ――幕藩体制

 という名の地方分権政治と決別をし――

 その後、明治政府が目指すことになる中央集権体制への移行を本気で目指し始めるつもりでした。

 

 それは、

 ――英断

 といってよかったでしょう。

 

 時の将軍・徳川慶喜は知的能力に頗(すこぶ)る秀でた人物であったと、いわれています。

 そういう人物がトップであったからこそ、可能であった“英断”でした。

 

 が――

 そうした“英断”を無効にするべく、反徳川幕府の勢力は、

 ――死に物狂いの奇計

 を繰り出します。

 

 武力に訴え、朝廷でクーデターを起こし、徳川幕府の“英断”に理解を示しそうな公家たちを一掃することで――

 新たな政体から、徳川慶喜を筆頭とする旧徳川幕府の首脳陣を徹底的に締め出したのです。

 

 さらに――

 旧徳川幕府の中級・下級武士らの挑発も試みます。

 

 徳川幕府の本拠地・江戸で故意に狼藉を働くなどして、旧徳川幕府の中級・下級武士らを怒らせ、首脳陣を突き上げさせることで、反徳川幕府の勢力に対し、徳川幕府側から戦端を開かせるように仕向けたのです。

 いわゆる、

 ――鳥羽・伏見の戦い

 です。

 

 徳川慶喜は、個人技の武術には優れていたようですが、大規模な軍勢の統率には疎かったようです。

 挑発をされた配下の軍勢の暴発を抑えきれなかったと考えられています。

 

 西欧列強の外交圧力にさらされた難局を、

 ――大政奉還

 という政治決断で切り抜けようとしたところ、

 ――鳥羽・伏見の戦い

 という軍事行動を押し付けられ――

 徳川慶喜は、政権の奪回を諦めます。

 

 いとも簡単に諦めた理由は――

 第一には、

 ――日本列島が内戦状態になることを避けたかったから――

 ということが考えられますが、

 ――未経験の軍事行動に訴えて難局を切り抜ける危険は冒したくなかったから――

 ということも、大いにあったでしょう。

 

 当然です。

 最初の将軍・徳川家康は、軍事行動の経験が豊富でした。

 戦乱の世を辛くも生き残った戦国大名です。

 

 が――

 最後の将軍・徳川慶喜は、軍事行動の経験がほぼ皆無です。

 戦乱の世は書物の中の歴史になっていました。

 

 こうして――

 反徳川幕府の勢力はクーデターを成功に導き――

 明治政府が誕生をします。

 

 このような経緯で誕生をした政体ですから、

 ――異様

 であったのは当然といえるのです。