マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

徳川慶喜に政権が任されなかった理由

 ――明治政府の発足当初の異様を避けるには、ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。

 との結果論について、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ここでの主語――「異様を避ける」や「政権を任せる」の主語――は、

 ――日本人

 もしくは、

 ――日本列島の人々

 です。

 

 後世の統帥権干犯問題のことを思うと、

 (ホント、任せておけばよかったのに……)

 と思います。

 

 とはいえ――

 

 しょせんは結果論です。

 

 ――大政奉還の頃、日本人は「徳川慶喜に政権を任せない」という過ちを犯した。

 などと主張をするつもりはありません。

 

 当時の日本人にとって――

 徳川慶喜に政権を任せようが、“維新の志士”たちに政権を任せようが、大した違いありませんでした。

 

 そして――

 “維新の志士”たちにとっては――

 徳川慶喜に政権を任せることなど、およそ考えられないことであったでしょう。

 

 自分たちの命がかかっていたからです。

 

 言論の自由が保証をされていた民主主義の国家での話ではありません。

 ――このまま徳川慶喜を中心とする政権ができてしまえば、自分たちは殺されるに違いない。

 そう考えたことは、想像に難くありません。

 

 先ほども述べた通り――

 仮に、徳川慶喜が政権の首班になっていたとしても、日本の近現代史は明治政府が興った現実の史実と大差のない展開になったに違いない、と――

 僕は考えています。

 

 が――

 政権を担った人々の顔ぶれは全く変わっていたはずです。

 

 徳川慶喜が政権を担っていれば――

 明治政府で重責を果たした“維新の志士”たちのほとんどは、歴史に名をとどめることなく、多くは若くして殺されていたでしょう。

 

 徳川慶喜自身は「殺せ――」とは命じなかったかもしれませんが――

 徳川慶喜の周囲の者たちが、そのように命じた可能性は高いと感じます。

 

 いったん政権を手に入れた者たちは――

 それを保ち続けるのに手段は選ばないものです。

 

 よって――

 “維新の志士”たちが徳川慶喜に政権を任せることは、ほぼ不可能であった――

 それは、よいとして――

 

 では――

 そのほかの人々は、どうであったでしょうか。

 

 徳川幕府の関係者たちの多くは、もちろん賛成であったでしょうから、いちいち論じません。

 

 では――

 “維新の志士たち”でもなく、徳川幕府の関係者でもない人たちは、どうであったか。

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――当時の日本人は概して徳川慶喜に政権を任せる気にはなれなかったのであろう。

 と考えています。

 

 理由は、

 ――人望の不足

 です。

 少なくとも10代、20代頃の徳川慶喜には――大政奉還の頃までの徳川慶喜には――いま一つ人望がなかったのですね。

 

 知的能力に頗(すこぶ)る秀でたいたことは間違いありません。

 

 が――

 歴史が伝えるところをみると――

 人間的な包容力に若干の問題があったようです。

 

 異端や異論を許す懐の深さが、徳川慶喜には欠けていました。

 

 島津久光(ひさみつ)と反りが合わなかったことは有名です。

 

 ――島津久光

 というのは――

 当時の薩摩藩の藩主の父親で、“維新の志士”である西郷隆盛大久保利通らの主君筋に当たる人物でした。

 

 主君筋に当たりはしますが――

 主君ではありません。

 

 あくまで、

 ――藩主の父親

 であって、

 ――藩主

 ではなかったのですね。

 

 藩主ではないのに、藩の最高指導者になっていました。

 その意味で、島津久光は間違いなく異端です。

 

 その島津久光に対し、徳川慶喜は初対面で面罵をしたと伝えられています。

 ――天下の奸物

 と詰ったそうです。

 ――奸物

 というのは、

 ――悪知恵を働かせる者

 くらいの意味です。

 

 背景にあったのは――

 当時の政治課題に取り組む方向性の違いでした。

 

 その違いを具体的に述べ始めると煩雑になるので、ここでは述べませんが――

 島津久光徳川慶喜には許容の余地のない異論を抱えていたのです。

 

 面罵は酒席でのことであったと伝えられます。

 

 が――

 そのことを――

 島津久光は長らく恨んだようです。

 

 徳川慶喜は20歳ほど年下でした。

 

 しかも――

 この頃の徳川慶喜は、徳川家の一族として徳川幕府の要職にはありましたが――

 まだ将軍職には就いていませんでした。

 

 以後――

 島津久光は、反徳川幕府の動きに流されていきます。

 

 それまでの島津久光は――

 西郷隆盛大久保利通らの反徳川幕府の動きを多少なりとも抑え込むなど――

 むしろ親徳川幕府の動きをしていました。

 

 つまり――

 島津久光は、

 ――“維新の志士”たちでもなく、徳川幕府の関係者でもない人たち

 の代表格であったといえます。

 

 そんな人物を手懐けることができなかったという点で――

 徳川慶喜に、いま一つ人望がなかったのは、ほぼ確実です。

 

 もちろん――

 徳川慶喜にとって、島津久光は異論を抱える異端の者であり――

 どんな人にとっても、異端や異論を許すのは困難です。

 

 異端や異論が許せなかったからといって――

 決して責められるべきではありません。

 

 が、

 ――とくに人望があるわけではなかった。

 というのは間違いないでしょう。

 

 人望のある人物なら――

 このような離反には遭わないものです。