――徳川慶喜には人望が不足をしていたので、政権が任されることはなかった。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
――思いやりが苦手な人であった。
との見方もされています。
要するに、
――集団指導体制
の一角として存在感を発することはできても、
――超人(カリスマ)指導体制
の中心で活躍はできない人物であった――
ということです。
よって――
徳川慶喜に、例えば、徳川家康の残像を重ねたがる人たちにとっては、
――敵前逃亡をした意気地のない文弱な指導者
という評価になります。
それは、決して的外れとはいえませんが――
僕は、少し違った見方をしています。
……
……
イギリスに――
以下のような冗談があるそうです。
――オクスフォード大学の学生は「世界は自分のものだ」と思っているが、ケンブリッジ大学の学生は「世界は誰のものでも構わない」と思っている。
オクスフォード大学は概して文科系に優れ、高名な政治指導者を数多く世に送り出しています。
一方、ケンブリッジ大学は概して理科系に優れ、高名な自然科学者を数多く世に送り出しています。
そうした学風の違いを冗談に表したものです。
おそらくは――
ケンブリッジ大学寄りの視点から生まれた冗談でしょう――つまり、理科系の処世感覚をやや自虐的に振り返った冗談です。
が――
そこには、人間社会の狭い枠組みにとらわれず、常に世界を多角的にとらえようとする矜持が隠されていることは、自明です。
明治維新の後――
徳川慶喜は、現在の静岡へ移り住むことが許されます。
そこで――
趣味に没頭をする生活を送るのです。
その趣味の中に、
――写真
や、
――油絵
がありました。
写真撮影が全く一般的ではなかった時代に撮影に興じていること――
油絵では山野の樹木や岩盤などの様相が丁寧に描かれていたこと――
などから――
徳川慶喜は、
――理科系の素質を併せ持った人
ではなかったか、と――
僕は考えています。
つまり、
――ケンブリッジ大学寄りの視点
も併せもっていたのではなかったか、と――
……
……
徳川慶喜は――
徳川幕府の最後の将軍として、一度は“世界”を“自分のもの”にしておきながら――
権力闘争に敗れ、鳥羽・伏見の戦いが起こると、あっさり敵方に恭順の意を示しました。
武家の棟梁としては、あるまじき発想です。
が――
徳川慶喜を、
――最後の将軍、武家の棟梁
とみるから、そうなるのです。
もし、
――近代日本の最初の政治家、文科・理科双方に通じた教養人
とみるなら、話は変わってきます。
形勢不利とみて、すぐに謹慎・隠遁の決断を下したところに――
僕は、
――世界は誰のものでも構わない。
というケンブリッジ大学流の矜持を感じます。
もちろん――
真偽は不明です。
が――
この視点によれば――
少なくとも徳川慶喜の決断は、そんなに不可解ではなくなるのです。