マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

明治政府は文民統制など考えもしなかった

 ――明治政府の失敗を“文民統制”の視点で考えようとすると、頭が混乱をする。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ありがちな混乱は、

 ――いわゆる戦前の日本は、文民統制が徹底をされていなかったにも関わらず、どういうわけか、第一次世界大戦の頃までは、外交・軍事で大きな失敗をしなかった。しかし、第二次世界大戦の頃は、文民統制が徹底をされていなかったがゆえに、外交・軍事で大きな失敗をした。

 というものです。

 

 こうした考えによると、

 ――どういうわけか――

 の疑問に答える必要が生じます。

 

 その答えとして、

 ――第一次世界大戦の頃までは、政治家も軍人も阿吽の呼吸で助け合っていたために、何となく文民統制がなされていたからである。

 とか、

 ――第一次世界大戦の頃までは、多くの軍人が政治のこともわかっていたために、文民統制的な発想に自然とよることができたからである。

 とかいった理由付けが挙げられます。

 

 たしかに――

 どうしても「文民統制」という言葉を用いるなら――

 このような理由付けは、まずまず妥当でしょう。

 

 少なくとも「完全に的を外している」ということはありません。

 

 が――

 ちょっと、わかりにくいのですね。

 

 ……

 

 ……

 

 もし、「文民統制」という言葉を用いずに――

 先ほどの内容、

 ――いわゆる戦前の日本は、文民統制が徹底をされていなかったにも関わらず、どういうわけか、第一次世界大戦の頃までは、外交・軍事で大きな失敗をしなかった。しかし、第二次世界大戦の頃は、文民統制が徹底をされていなかったがゆえに、外交・軍事で大きな失敗をした。

 を述べ直すならば――

 次のようになります。

 

 ――いわゆる戦前の日本は、第一次世界大戦の頃までは、外交・軍事を政治の一部とみなしていたが、第二次世界大戦の頃は、外交・軍事を政治の一部とみなさなくなっていたがゆえに、外交・軍事で大きな失敗をした。

 となります。

 

 つまり――

 いわゆる戦前の日本に限らず――

 ある政府が外交・軍事で大きな失敗をするかどうかと、その政府で文民統制が徹底をされているかどうかとは――

 根本的に無関係である――

 ということです。

 

 文民統制が徹底をされていても――

 その「文民」である政治家が、外交・軍事の目的を達するために政治を動かしていれば、いつかは苦渋の挫折を味わうことになるし――

 文民統制が徹底をされていなくても――

 その「文民」ではない軍人が、政治の目的を達するために外交・軍事を動かしていれば、ひとまず苦渋の挫折を味わうことにはなりません。

 

 明治政府の首脳部は、はなから文民統制など考えもしなかったようです。

 外交・軍事を含む政治の全てを、憲法上、少なくとも形式的には、天皇が司ることにしていました。

 

 そして――

 その天皇を、どちらかといえば、

 ――軍人

 として――

 

 ――政治家

 として――ではなく、

 ――軍人

 として――

 

 自分たちの政体――政治の体制――の頂点に戴くことを望みました。

 

 そのために――

 明治期から昭和前期にかけて――

 天皇は軍服姿で記録に残されることが圧倒的に多かったのです。

 

 そんな明治政府――いわゆる戦前の日本――を“文民統制”の視点で考えることに、どれほどの意義があるのか――

 少なくとも僕には、はなはだ疑問です。