マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

建武政権――明治政府の500年ほど前に誕生をしていた政権

 ――明治政府の先進性

 は、

 ――後退性を包(くる)んだ先進性

 であった――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 要するに――

 明治政府の中核にあったのは、

 ――後退性

 であり――

 ――先進性

 は、ただ表層を覆っていたにすぎない――

 ということです。

 

 実は――

 

 ――先進性

 という“衣”をまとわず、

 ――後退性

 という“身”ひとつで勝負をした政権が――

 明治政府の500年ほど前に誕生をしていました。

 

 鎌倉末期後、南北朝期前に成立をした――

 後醍醐(ごだいご)天皇の政権です。

 

 元号をとって、

 ――建武(けんむ)政権

 と呼ばれます。

 

 この政権が試みた政治や、その施策は、

 ――建武の新政

 と呼ばれましたが――

 それら試みは、わずか3年で頓挫をしました。

 

 この「わずか3年」というのが印象的であるからか――

 「後醍醐天皇」という人名や「建武政権」という言葉よりも「建武の新政」という言葉のほうが広く知られているような気がします。

 

 ……

 

 ……

 

 ――建武政権

 は、

 ――明治政府

 と違って――

 その中核にあった、

 ――後退性

 が剝き出しになっていた、と――

 僕は考えています。

 

 建武政権では“後退性”を包んだ先進性が――全くではないにせよ――ほぼ、なかったのですね。

 

 それは当然でした。

 

 明治政府の先進性は、西欧列強の外交圧力がもたらしていたのです。

 

 建武政権の時代には――

 そうした外交圧力は、ほぼありませんでした。

 

 よって――

 建武政権が先進性を帯びることは原理的にありえなかった、と――

 いえます。

 

 この指摘は、建武政権を貶めるものではありません。

 

 建武政権に明治政府のような外交圧力がかからず――

 その後退性ばかりが目立ってしまったことは――

 たんに運・不運の問題といえます。

 

 建武政権は、明治政府と比べて、そんなに劣っていたわけではない、と――

 僕は考えています。

 

 ……

 

 ……

 

 後醍醐天皇は――

 わかりにくい人物です。

 

 30年ほど前までは、

 ――好戦的で、執念深く、やや知性に欠ける人物

 と評されていました。

 

 が――

 近年の実証的な研究成果から、

 ――本来は融和的で、愛情深く、高い知性を備えた人物

 ではなかったか、と――

 評され始めています。

 

 こうした後醍醐天皇の“わかりにくさ”に象徴をされるように――

 建武政権や、その政策である“建武の新政”も、けっこう、わかりにくいのですね。

 

 きょうは結論だけを述べます。

 

 今日の歴史研究者の多くは、

 ――建武の新政

 は、時代の流れに逆行をした無理筋の政治であったとは考えていないようです。

 

 むしろ、

 ――後世の室町幕府が導入をし、確立をさせた政策の多くが、建武の新政によって着手をされていた。

 と考えています。

 

 よって――

 僕のいう、

 ――建武政権の後退性

 は、

 ――建武の新政

 の頓挫をさしているのではありません。

 

 ――建武の新政

 は、むしろ先進性を感じさせるくらいのものでした。

 

 僕のいう、

 ――建武政権の後退性

 は、

 ――政体――政治の体制――

 の復古をさしています。