――鎌倉末期に即位をした後醍醐(ごだいご)天皇は、天皇としての権威を巧みに活かすことによって、失っていた権力を強引に奪い返そうとした。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
後醍醐天皇の政権――建武(けんむ)政権――は、鎌倉末期から南北朝初期にかけてのごく短い期間で潰えましたが――
その理由は、
――権威だけで権力を強引に奪い返そうとした。
ということに尽きるでしょう。
今から30年ほど前までは、
――建武政権が短期間のうちに倒れたのは、いわゆる“建武の新政”で打ち出された政策が悪かったからである。
と考えられていました。
が――
今は、
――“建武の新政”それ自体は、決して、そんなに悪い政策ではなかった。
との考えが主流になりつつあるそうです。
では――
建武政権は、なぜ短期間のうちに倒れてしまったのか――
それは、
――権威だけで権力を強引に奪い返そうとした。
からに、ほかなりません。
遅くとも平安末期までに――
この国の権力は、武士の力――武力――によって直接的に支えられるようになりました。
要するに、
――武力を握る者だけが権力を握れるようになった。
ということです。
後醍醐天皇は武力を直接的には握っていませんでした。
鎌倉末期の有力な武士らを従えることで間接的に武力を握っていました。
間接的には後醍醐天皇なのですが――
直接的には鎌倉末期の有力な武士ら――足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松則村ら――です。
なかでも――
足利尊氏が別格でした。
他の武士らに与える影響力は頭抜けていたといわれます。
彼が鎌倉幕府を本気で見限ったから――
後醍醐天皇は権力を握れたのであり――
彼が鎌倉幕府を本気で見限らなければ――
鎌倉幕府が武力で打倒をされることはなく、また、後醍醐天皇が権力を握ることも、おそらくはなかったのです。
が――
その実態を、後醍醐天皇や、その側近らは、今一つ、わかっていなかったようです。
足利尊氏が鎌倉幕府の祖である源頼朝と同等の扱いを受けるものと思っていたと考えられます。
すなわち――
源頼朝が将軍となって幕府を開いたように、足利尊氏もまた将軍となって幕府を開き――
その政体――政治の体制――に後醍醐天皇がお墨付きを与えるに違いないと、素朴に信じていたようなところがあるのです。
それゆえにこそ――
足利尊氏も、足利尊氏を慕う武士らも、後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を滅ぼしたのでした。
が――
後醍醐天皇は、足利尊氏を将軍には任じなかったのですね――正確には、源頼朝が任じられた征夷大将軍には任じずに、他の呼称の将軍に任じたのです。
このことに堪えきれずに――
そして――
南北朝期の騒乱を経て――
孫の足利義満の代まで費やし、何とか新たな幕府――室町幕府――を打ち立てるのですが――
もし――
後醍醐天皇が、早々に足利尊氏を将軍に任じ、幕府を開かせていれば――
当然のことながら、その後の南北朝期の騒乱はなく――
また、後醍醐天皇自身、後世の歴史家から「好戦的で、執念深く、やや知性に欠ける」などと不当な誹りを受けることもなかったでしょう。
むしろ――