マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

徳川幕府が完成形に導いた“権威と権力との分離”

 鎌倉末期の有力な武士であった足利尊氏が、同時代において最終的には敵対をした後醍醐天皇に対し、伝えたかったことは、

 ――権力に権威が結びつくと、権力の過ちを誰も糺せなくなるので、権威と権力とは分かれているほうがよい。

 ということではなかったか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もちろん――

 これは僕の完全な想像ないし空想であり――

 史料的な裏付けがあるわけではありません。

 

 が――

 平安末期以降、鎌倉に幕府が成立をし、京の朝廷との間で、

 ――権威と権力との分離

 が試み始められ――

 それが、鎌倉期を通し、ある程度は効力を発しつつあったことを、足利尊氏足利尊氏を慕っていた武士らは、漠然と感じていたのではないか――

 

 少なくとも――

 そんな想像ないし空想をすることは――

 それほど突飛なこととは思われません。

 

 現に――

 その分離は、織豊期以降、江戸期にかけて完成をされ、目にみえて効力を発し始めたたと考えられます。

 

 江戸期、260年の長きにわたって曲がりになりにも太平の世がもたらされたことは、日本史上、空前の出来事といってよく――

 その僥倖がもたらされた要因の筆頭は、

 ――権威と権力との分離

 ではなかったか、と――

 僕は感じています。

 

 その分離の完成形を――

 明治政府は、いささか不用意に壊した、と――

 考えることができます。

 

 具体的には――

 明治政府の首脳部が、徳川幕府から政権を奪い取って権力の行使を始める際に――

 明治天皇を権力の源泉である武力の元締めに不用意に据えてしまったこと――

 これが失敗でした。

 

 その後の歴史をみるならば――

 武力の元締めは、天皇でないほうがよかった――征夷大将軍でも、摂政・関白でも、太政大臣でも、内閣総理大臣でもよいから――

 とにかく、天皇でないほうがよかった――

 

 そう思います。

 

 ……

 

 ……

 

 徳川幕府が完成形に導いた、

 ――権威と権力との分離

 は――

 その後、太平洋戦争の挫折を経て、アメリカ軍ないしアメリカ政府によって再びもたらされました。

 

 皮肉といえば、皮肉ですが――

 

 それが――

 たんなる偶然なのか――

 それとも外国人にも即座にわかるほどに自明の理であったのか――

 

 そこは――

 いま一つ判然としません。

 

 が――

 

 いわゆる戦後の日本国憲法が掲げる象徴天皇制は――

 徳川幕府が完成形に導いた、

 ――権威と権力との分離

 を奇妙なくらい正確に受け継いでいるように――

 僕には思えます。