マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

日本史の理

 ――象徴天皇制は日本史の理(り)に適っている。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ……

 

 ……

 

 ――日本史の理

 という言葉を用いました。

 

 おそらく――

 このような語句は存在をしません。

 

 僕が咄嗟に思い付いた新造の語句です。

 

 意味は、

 ――日本列島における過去2000年ほどの政治史の流れに見出せる原理

 といったところです。

 

 そのような原理の1つに、

 ――権威と権力との分離

 があります。

 

 やや詳しく記せば、

 ――日本列島においては、権力は権威から常に遠ざかろうとする。

 となります。

 

 鎌倉末期――

 後醍醐(ごだいご)天皇は、権威に権力を呼び込もうとしました。

 

 その結果――

 建武(けんむ)政権が興り、いわゆる建武の新政が始まりましたが――

 わずか3年で頓挫をします。

 

 その後――

 しばらくは南北朝期の騒乱が続き――

 やがて、足利義満による室町幕府の隆盛という形で、権力が権威から遠ざかりました。

 

 その後――

 室町幕府の衰退という形で、権力が分散をし、権威も薄れ――

 日本列島は戦国期に入っていきます。

 

 その分散をした権力に再び集約を与えたのが――

 織田信長であり、豊臣秀吉であり、徳川家康でありました。

 

 権力が集約をみたことで――

 権威も輝きを取り戻しました。

 

 徳川幕府の確立をもって――

 権力は権威から可能な限り遠ざかりました。

 

 その結果――

 日本列島に260年の太平がもたらされた――

 

 そう考えることができます。

 

 が――

 

 そこへ西欧列強の外交圧力がかかりました。

 

 ――植民地にされるかもしれぬ!

 

 危機感を抱いた者たちが――

 権威と権力との統合によって――

 その危機を脱しようとしました。

 

 それが高じて、

 ――明治維新

 に至ったと考えられます。

 

 より厳密には、

 ――王政復古の大号令

 です。

 

 このときに――

 明治維新の担い手たちは、

 ――権威と権力との癒合

 という過ちを犯した、と――

 僕は考えます。

 

 西欧列強の外交圧力という危機に対し――

 権威と権力との統合で対処をしようとしたことは、おそらくは過ちではありません。

 

 その統合を、

 ――協働

 とか、

 ――連携

 とかいった緩やかな手法でもたらさなかったことが過ちでした。

 

 緩やかな手法の方が、

 ――日本列島においては、権力は権威から常に遠ざかろうとする。

 という原理――つまり、

 ――日本史の理

 に適っていたのは自明でしょう。

 

 ――王政復古の大号令

 の頃――

 後の明治政府の首脳部の誰かが――

 権力を、“宰相級の有力な廷臣”として、名実ともに、きちんと握る必要があった、と――

 僕は考えます。

 

 西郷隆盛か、岩倉具視か、木戸孝允か――

 誰でもよい――

 

 権威の体現者である明治天皇以外であれば、誰でもよかった――

 

 徳川慶喜でもよかった――

 

 それなのに――

 権力の“実”のほうだけを明治政府の首脳部で分け合って、名のほうは権威の体現者である明治天皇に差し出してしまった――

 

 それは、あきらかに、

 ――日本史の理

 に抗う悪手であった、と――

 いってよいでしょう。

 

 この悪手を端緒として――

 後世、いわゆる統帥権干犯問題などから日本列島に無責任な政体――政治の体制――が生まれ、「太平洋戦争」という名の挫折へと突き進んでいった――

 と考えられます。