マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

変を「乱」と呼ぶこともあった

 ――変を「乱」と呼ぶことはない。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べてから――

 

 (あ、一つだけあった!)

 と思い当たりました。

 

 江戸前期に起きた、

 ――由井(ゆい)正雪(しょうせつ)の乱

 です。

 

 ――由井正雪の乱

 は、軍(ぐん)学者・由井正雪徳川幕府の転覆を図ったとされる事件です。

 軍学者というのは、主に江戸期に用兵や築城の技術について研究をしていた学者のことを指します。

 

 由井正雪は、軍学者として優れていたらしく――

 徳川幕府を始め、各地の大名家から、たびたび仕官の誘いを受けていたそうです。

 

 が――

 当時の徳川幕府の政策――武力による威嚇を背景に各地の大名家を従わせていく政治手法――に反発をし、いずれの仕官の誘いも断ったといいます。

 

 そうした態度が共感を得て――

 由井正雪の私塾には、徳川幕府によって職を失った浪人の武士たちが集まってきたといいます。

 

 彼らの不平不満を吸い上げる形で――

 由井正雪徳川幕府の転覆を図るのです。

 

 由井正雪らは、江戸と京との二手に分かれ――

 江戸では、徳川幕府の本拠地である江戸城を焼き討ちにし、慌てて登城をしてくるはずの幕府要人らを鉄砲で撃ち殺し、まだ幼かった四代将軍・家綱を人質にとる――

 京では、御所に忍び入って、密かに天皇を拐(かどわか)し、朝廷の権威を活かし、徳川幕府に代わって全国各地の諸大名に号令をかける――

 という計画であったようです。

 

 あまりにも気宇壮大な計画なので――

 当然ながら、成就をするわけがなく――

 計画は未然に防がれました。

 

由井正雪っていうのは、本当に優れた軍学者だったんかなぁ)

 などと、僕は思うのですが――

 

 この、

 ――由井正雪の乱

 で殺害をされた者は、多く見積もっても数十名です。

 

 よって、

 ――由井正雪の乱

 ではなく、

 ――由井正雪の変

 と呼ぶのが妥当のように思われます。

 

 事実、

 ――慶安の変

 という当時の元号を活かした別名があり――

 むしろ、そちらが主流の呼び方なのです。

 

 では――

 なぜ、

 ――由井正雪の乱

 の呼び方もあるのかといえば――

 

 それは――

 おそらく、由井正雪らの立てた計画の気宇壮大さを肯定的にみた人たちがいたからです。

 

 もし、由井正雪らの計画が半分でも成功をしていたら――

 たしかに、日本列島はハチの巣をつついたような大騒ぎになっていたでしょう。

 

 そうなれば――

 殺害をされる者も多く出て、

 ――乱

 と呼ぶのが極めて自然な事態になっていたに違いありません。