――「変」か「乱」かの違いは、政権をめぐる争いの閉鎖性ないし開放性に依っている。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
このことを、
――乙巳(いっし)の変
を例にとって述べましょう。
――乙巳の変
については、1月27日の『道草日記』で述べました。
大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが、当時、政治の実権を握っていた豪族の当主――蘇我入鹿(そがのいるか)――を宮廷に呼び寄せ、欺き殺したとされる事件です。
この事件で当主を失った蘇我(そが)氏は――
その後、日本史の表舞台の中央に立つことは、二度とありませんでした。
蘇我入鹿が宮廷で暗殺をされたとき――
父親の蘇我蝦夷(そがのえみし)は還暦を迎えながらも健在であったと伝えられています。
蘇我入鹿の暗殺の報せに触れ――
先代の当主である蘇我蝦夷に味方をしようと、それなりの数の者たちが集まってきたようですが――
蘇我蝦夷は、運ばれてきた息子の亡骸を目の当たりし、戦意を失い、邸宅に火を放って自ら命を絶ったといわれます。
このとき――
もし蘇我蝦夷が、もう10歳くらい若ければ――
中大兄皇子らを相手に一か八かの戦いを挑んだかもしれません。
中大兄皇子らの採った、
――暗殺
という手段を、
――卑劣である。
といって糺し――
世に広く檄を飛ばすことで――
さらに多くの味方を募ったかもしれません。
そうなれば、
――乙巳の変
は、
――乙巳の乱
と呼ばれるようになっていたでしょう。
――争いの開放性
が増したからです。
実際には――
蘇我蝦夷は、中大兄皇子らの手段を糺すこともなく、檄を飛ばすこともなく、自殺を遂げました。
――争いの開放性
は減り、
――争いの閉鎖性
が増す方向で断を下したのです。
それゆえに、
――乙巳の変
は、
――乙巳の乱
ではありえません。