マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「嘉吉の乱」の「乱」たる理由

 室町期に起こった嘉吉(かきつ)の変は、むしろ、

 ――嘉吉の乱

 と呼ばれることのほうが多い――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 将軍・足利義教(よしのり)が守護大名・赤松満祐(みつすけ)の屋敷で騙し討ちに遭った事件です。

 閉鎖性の高い争いですから、ふつうに考えれば、

 ――乱

 と呼ばれる余地はありません。

 ――変

 です。

 

 が――

 実際には、

 ――乱

 と呼ばれることのほうが多いのですね。

 

 その理由は――

 将軍暗殺後の顛末によります。

 

 当初、赤松満祐らは、将軍を騙し討ちにしたのであるから――

 すぐにでも幕府の軍勢が押し寄せて来て、屋敷は囲まれると、考えていたようです。

 

 そうなれば――

 潔く屋敷に火を放ち、自ら命を絶つつもりでいた――

 

 が――

 夜になっても幕府の軍勢は押し寄せません。

 

 それどころではなかったのです。

 

 将軍・足利義教の強権的な政治手法は、幕府を完全な独裁政権に仕立てていました。

 唯一絶対の独裁者が殺されたことで、幕府は組織としての体を失っていたのです。

 

 幕府の軍勢が押し寄せて来ないことを確かめて――

 赤松満祐らは自分たちの領国――現在の兵庫県岡山県――に戻って本格的に幕府に反抗をすると決めました。

 

 将軍・足利義教を騙し討ちにしたのは、自国の領土にあった屋敷においてではなく、京にあった自分たちの屋敷においてでした。

 赤松氏は室町幕府の有力な守護大名でしたが、さすがに自国の領土に将軍を招けるほどの権勢はありません。

 当時、幕府の本拠地は京にあり、将軍・足利義教も京に住んでいました。

 それゆえに、赤松満祐は将軍を自分たちの屋敷に招いて騙し殺すことができたのです。

 

 赤松満祐らは、京にあった自分たちの屋敷に火をかけ、自国の領土に向かいました。

 道中、足利義教の首を槍に刺し、高々と掲げていたといわれます。

 強権的な政治手法を採った将軍・足利義教は、概して評判がよくありませんでした。

 ――そんな悪名高き将軍を取り除いた自分たちにこそ正義はある。

 と世間にアピールをしたかったのだと考えられます。

 

 この辺から、

 ――嘉吉の乱

 の「乱」たる理由が徐々に目立ち始めてくるのです。

 

 つまり――

 赤松満祐らは、当初は、将軍を騙し討ちにし、その後で自ら命を絶つつもりでいた――

 

 が――

 幕府は、軍勢を差し向けてこない――

 

 ――ならば、ひとつ自分たちで幕府を作り直してやろう。

 そのように考えたようです。

 

 ここまできたら――

 争いの開放性が一気に高まります。

 

 足利一門の人物を自国の領土に連れてきて、傀儡の将軍とし――

 やがて全国の守護大名らが自分たちに味方をするのを待つことにしたようです。

 

 が――

 いくら悪名高き将軍とはいえ、騙し討ちの犯人に共感を示すような者が、そんなに多くいるはずはありません。

 

 赤松満祐らは、思うように味方を集めることができず――

 態勢を立て直して大規模な軍勢を差し向けてきた幕府によって、あっさり滅ぼされてしまいました。

 

 以上が――

 嘉吉の変の将軍暗殺後の顛末です。

 

 この変が、しばしば、

 ――乱

 と呼ばれる理由が、よくわかります。