室町期に起こった嘉吉(かきつ)の変が、しばしば、
――嘉吉の乱
と呼ばれる理由について――
きのうの『道草日記』で述べました。
簡単に述べ直すと――
将軍・足利義教(よしのり)が、京にあった赤松満祐(みつすけ)らの屋敷で騙し討ちにされたところまでは、あきらかに、
――変
と呼ぶのがよいのですが――
その後、赤松満祐らが自国の領土に戻って幕府に反抗をした顛末を重くみれば、
――乱
と呼ぶのがよいのです。
このように――
嘉吉の変を、
――乱
と呼ぶか――
それとも、
――変
と呼ぶかについては――
この政権をめぐる争いの本態をどこに見出すかに、かかってきます。
将軍暗殺前の過程に見出すのなら、
――嘉吉の変
ですし――
将軍暗殺後の過程に見出すのなら、
――嘉吉の乱
です。
……
……
僕は、
――嘉吉の変
がよいと思っています。
つまり――
この政権をめぐる争いは、将軍暗殺前の過程に見出すのがよい――
ということです。
きのうの『道草日記』でも述べた通り――
赤松満祐らは、当初、将軍を騙し討ちにした後のことは、ほとんど何も考えていなかったようです。
将軍を騙し討ちにすれば――
すぐにでも幕府の軍勢が押し寄せて来て、屋敷は囲まれると、考えていたようです。
つまり――
この騙し討ちは、本来は集団自殺に近い行為であったとみなせるのです。
自分たちの領国が将軍によって奪われると考えた赤松満祐らが、
――それならば、将軍を道連れに自殺をしてやる!
と自暴自棄になった結果――
騙し討ちに至ったとみなせるのです。
よって――
政権をめぐる争いとしては、きわめて閉鎖性が高かったと考えられます。
嘉吉の変は、一言でいえば、私憤が極まって起こっています。
根底にあったのが、
――私憤
ですから――
他の守護大名たちは、なぜ赤松満祐らが将軍暗殺という大それた行為に出たのかが、すぐにはわかりませんでした。
――きっと他の守護大名たちの多くが赤松満祐らと内通をしていて、幕府の転覆を図っているに違いない。
と勘違いをした者が多かったと伝わります。
将軍・足利義教の強権的な政治手法が、あまりにも酷かったために――
赤松満祐らの暴挙は、多くの同時代人の目には、
――公憤
に基づく決死の反抗と映ったのです。
が――
その決死の反抗をもたらしたのは、公憤でも義憤でもなく、ただの私憤でした。
将軍を騙し討ちにし、私憤を晴らした後は――
赤松満祐らの行動から果断さが薄れます。
全国の有力な守護大名らの心を動かしうる効果的な多数派工作に勤しむ必要があったのに――
それをしなかった――
――あんな酷い将軍を殺してやったのだから、みんな、味方についてくれるだろう。
と、甘く考たようです。
あるいは、
――卑劣な手段を使った以上、多数派工作を必死でやらなければ、誰も味方についてくれない。
と、厳しく考えることが、できなかった――
(そもそも、赤松満祐には政権をめぐる争いに加われるような資質が初めからなかったのではないか)
と、僕は感じています。
赤松満祐は、生来、傲岸不遜な性格であった、と――
いわれます。
また――
強権的な将軍・足利義教と、当初は良好な関係を築いていた、とも――
(そんな男が、公憤なり義憤なりを抱くわけがない)
そう思います。