マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

本能寺の変――日本史上、最も有名な変

 ――変

 と、

 ――乱

 との違いについて述べています。

 

 ――日本史上、最も有名な変は?

 と問われれば――

 多くの人が、迷わず、

 ――本能寺の変

 と答えるでしょう。

 

 先ごろ放映をされたNHK大河ドラマでも描かれていたそうですから――

 この時期に、

 ――変

 や、

 ――乱

 について語るなら、

 ――本能寺の変

 は外せませんね。

 

 ……

 

 ……

 

 あらためて述べるまでもなく――

 

 ――本能寺の変

 とは――

 織豊期、天下統一を目前にしていた織田信長が、京の本能寺に宿泊をしていた際に――

 有力な家臣の一人・明智光秀の軍勢に襲われ、命を落とした事件です。

 

 きのうまでの『道草日記』で述べた、

 ――嘉吉(かきつ)の変

 とは違って、

 ――本能寺の変

 は、

 ――本能寺の乱

 と呼ばれることがありません。

 

 が――

 これら2つの事件――

 実は、起こったことだけを比べると、わりと似ているのです。

 

 本能寺の変を起こした明智光秀は、織田信長の有力な家臣で――

 当初は、織田信長と良好な関係を築いていたと考えられています。

 

 嘉吉の変を起こした赤松満祐(みつすけ)は、室町幕府の有力な守護大名で――

 当初は、将軍・足利義教(よしのり)と良好な関係を築いていたと考えられています。

 

 また――

 織田信長足利義教も、わずかな数の供しか従えていなかったところを襲われ、命を落としました。

 

 その後――

 明智光秀も赤松満祐も、一度は政権の獲得を目指しますが、戦(いくさ)に敗れ、命を落としています。

 

 ちなみに――

 事件の起こった場所は、どちらも京の市街地です。

 

 これだけ類似点が挙げられるのに――

 なぜ、

 ――嘉吉の変

 は、

 ――嘉吉の乱

 とも呼ばれ、

 ――本能寺の変

 は、

 ――本能寺の乱

 と呼ばれることがないのか――

 

 ……

 

 ……

 

 すぐに思い当たるのは――

 

 ――嘉吉の変

 の「嘉吉」は、事件が起こったときの元号であり、

 ――本能寺の変

 の「本能寺」は、事件が起こったところの呼称である――

 ということです。

 

 これだけ性質の異なる言葉――「嘉吉」と「本能寺」と――が用いられていれば――

 片方が、

 ――嘉吉の乱

 とも呼ばれ――

 もう片方が、

 ――本能寺の乱

 とは呼ばれなくても――

 そんなに不思議ではありません。

 

 が――

 以上のことは、本質的な理由とはいえないでしょう。

 

 なぜか、というと――

 

 ……

 

 ……

 

 まずは――

 以下のことを確認しておきたいと思います。

 

 ――嘉吉の変

 が起こったのは、京の二条西洞院(にしのとういん)にあった赤松満祐の屋敷ですから、

 ――嘉吉の変

 を、

 ――本能寺の変

 に倣って呼べば、

 ――二条西洞院の変

 となります。

 

 また、

 ――本能寺の変

 が起こったのは、「天正(てんしょう)」という元号が用いられていたときですから、

 ――本能寺の変

 を、

 ――嘉吉の変

 に倣って呼べば、

 ――天正の変

 となります。

 

 が、

 ――二条西洞院の変

 という呼び方も、

 ――天正の変

 という呼び方も――

 まず用いられることはありません。

 

 つまり、

 ――嘉吉の変

 が、「嘉吉の乱」と呼ばれることも多いのに、

 ――本能寺の変

 が、「本能寺の乱」と呼ばれることがない理由は――

 「嘉吉」という言葉が事件の起こったときを表す言葉であり、「本能寺」という言葉が事件の起こったところを表す言葉である、ということとは、

 (基本的には関係はなさそうだ)

 と考えられます。

 

 では――

 

 何が関係をしているのか、というと――

 

 ……

 

 ……

 

 つづきは、あすの『道草日記』で――