室町期に起こった、
――嘉吉(かきつ)の変
と――
織豊期に起こった、
――本能寺の変
とは、互いに似ているにも関わらず――
――嘉吉の変
が、しばしば、
――嘉吉の乱
と呼ばれるのに対して、
――本能寺の変
は、決して、
――本能寺の乱
と呼ばれることはない――
ということを、きのうの『道草日記』で触れました。
その理由は何か――
……
……
僕は、
(事件が収束するまでの期間の長さだろう)
と考えています。
嘉吉の変では――
将軍・足利義教(よしのり)が、京の二条西洞院(にしのとういん)で赤松満祐(みつすけ)らに殺害をされてから――
赤松満祐が、自分たちの領国の播磨(はりま)――現在の兵庫県の一部――で幕府の軍勢と戦って敗れ、自殺に追い込まれるまで――
約3か月間でした。
一方――
本能寺の変では――
織田信長が、京の本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、自殺に追い込まれてから――
明智光秀が、山城――現在の京都府――の北西部にある山崎というところで羽柴秀吉――後の豊臣秀吉――の軍勢と戦って敗れ、命を落とすまで――
約10日間でした。
嘉吉の変は、収束まで約3か月もかかっていますから――
世間は、ある程度は事態の推移を追えたはずです。
つまり、
――赤松満祐が将軍を殺した?
から始まり、
――その後、播磨に立て籠って幕府の兵と戦うだと?
へ移り、
――結局は敗れて自害をしたか。
で終わった――
一方――
本能寺の変は、収束まで約10日しかかかっていませんから――
世間は――畿内の人々を除けば――ほとんど事態の推移を追えなかったはずです。
――なに? 織田信長が明智光秀に殺されたが、その明智光秀は羽柴秀吉と戦って、すでに敗れているだと? いったい、どうなっておるのだ?
という感じです。
つまり――
嘉吉の変は、当初は争いの閉鎖性が高かったものの、その後は低まり、むしろ、争いの開放性が高まっていったが――
本能寺の変は、当初から争いの閉鎖性が高く、争いの開放性は低いままであった――
と考えることができます。
よって――
もし、赤松満祐が将軍・足利義教を騙し討ちにした後、10日くらいのうちに幕府の軍勢と戦って敗れ、命を落としていたら、
――嘉吉の変
が、
――嘉吉の乱
と呼ばれることはなかったでしょう。
また――
もし、明智光秀が織田信長を本能寺に襲って自殺に追い込んだ後、羽柴秀吉と戦って敗れることなく、3か月くらいは持ちこたえていたら――
さすがに、
――本能寺の変
が、
――本能寺の乱
と呼ばれることはなかったでしょうが――
当時の元号をとるなどして、
――天正(てんしょう)の乱
とは呼ばれていたかもしれません。
あるいは、
――明智光秀の乱
かもしれませんね。
いずれにせよ――
いわゆる、
――本能寺の変
は、
――変
ではなく、
――乱
として認識をされていたのではないか――
そう思います。