室町期に起こった、
――嘉吉(かきつ)の変
は、収束までに約3か月を要したので、争いの開放性が高まり、
――乱
ともみなされたが――
織豊期に起こった、
――本能寺の変
は、収束までに約10日しか要さなかったので、争いの閉鎖性が高まり、
――乱
とはみなされなかったのではないか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
それは、その通りで――
今になって、改めるところはないのですが――
どうしても気になるのは――
たしかに、本能寺の変は、閉鎖性の高い争いではあったと思いますが――
その後に起こった明智光秀と羽柴秀吉――後の豊臣秀吉――との戦いは、両軍合わせて3万とも6万ともいわれる数の将兵が参加をした大規模な戦いでしたから――
やはり、
――変
と呼ぶには違和感が強すぎるのですよね。
つまり――
これは、
――乱
であろう、と――
きのうの『道草日記』で述べたように、
――本能寺の変
は、本来は、
――天正(てんしょう)の乱
もしくは、
――明智光秀の乱
と呼ぶのが筋であろう、と――
そう思います。
ただし、
――天正の乱
については――
――天正壬午(じんご)の乱
という、ほぼ同時期に起こった全く別の乱がありますので――
これを用いるのは不適当とも思います。
しっくりくるのは、
――明智光秀の乱
でして――
実際に――
この呼称を推している研究者もいるようです。
これを用いるならば――
いわゆる、
――本能寺の変
については――
以下の図式が成り立つのですね。
すなわち、
明智光秀の乱
という図式です。
――山崎の戦い
というのは――
一方――
いわゆる、
――嘉吉の変
については――
以下の図式が成り立ちます。
すなわち、
= 嘉吉の変 + 播磨(はりま)の戦い
という図式です。
――播磨の戦い
というのは――
赤松満祐らが自分たちの領国――播磨――に戻った後に起こった赤松満祐らと幕府の軍勢との戦いです。
――山崎の戦い
という呼称は存在をしますが、
――播磨の戦い
という呼称は存在をしません――僕が今、便宜上こしらえました。
まあ――
いろいろと問題はありますが――(笑
これら2つの図式を念頭に置けば、
――嘉吉の変
が、
――嘉吉の乱
とも呼ばれていて、かつ、
――本能寺の変
が、
――本能寺の乱
とは呼ばれていない理由が、直観的に、よくわかる気がします。