マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

本能寺の変:ケレン味のなさに潜む現実の凄み

 ――織田信長判官びいきをされている。

 ということを、おとといの『道草日記』で述べました。

 

 ――織田信長

 に、

 ――判官びいき

 という組み合わせは――

 なんだか、とても不思議な気がします。

 

 が――

 僕は、

 (間違いない)

 と思っています。

 

 織田信長判官びいきをされています。

 

 ――判官びいき

 とは――

 いうまでもなく――

 鎌倉幕府の祖・源頼朝の弟・源義経が、兄に疎まれ、追い詰められ、若くして非業の死を遂げたことに由来します。

 

 日本人の多くは――

 なんだかんだいって――

 源義経のことが好きなように――

 織田信長のことが好きなのです。

 

 理由は、

 ――本能寺の変

 でしょう。

 

 あの幕切れは――

 鮮烈です。

 

 まさに、

 ――事実は小説よりも奇なり。

 を地でいっています。

 

 織田信長の人生のような物語を――

 虚構として一から作り上げたとしたら、

 ――なんだ、この尻切れトンボの幕切れは?

 と厳しい批判にさらされるでしょう。

 

 現実として歴史に書き留められているからこそ――

 織田信長の人生は、鮮烈な幕切れの控えた物語とみなされうるのです。

 

 物語のクライマックスで――

 主人公が、

 ――こは謀叛(むほん)か。いかなる者の企てぞ。

 と訊ねる場面は、創作家の想像を飛び超えています。

 

 ――明智が者と見え申し候(そうろう)。

 と知らせを受け、

 ――是非に及ばず。

 と答える台詞は、劇作家の語彙を突き抜けています。

 

 ……

 

 ……

 

 僕が織田信長の人生の概略を初めて知ったのは――

 10歳になるかならないかの頃でした。

 

 第一印象は、

 (え? なに、これ?)

 でした。

 

 一言でいえば、

 ――興覚め

 でした。

 

 (なに、死んでんの――こんなところで?)

 でした。

 

 当時の僕は、虚構と現実との区別が希薄でした。

 

 それから30年くらいが経ち――

 織田信長の人生が、紛れもなく事実を基にしているのだと実感をするようになって――

 

 深く感じ入るようになりました。

 

 とりわけ、

 ――本能寺の変

 の顛末に、深く心を動かされるようになりました。

 

 それは、

 ――ケレン味のなさに潜む現実の凄み

 といえます。

 

 本能寺の変に、

 ――ケレン味

 はありません。

 起こったことは、突き詰めて考えれば、たんなる家来の反逆です。

 

 が――

 それゆえに――

 僕らは、

 ――現実の凄み

 をみてとることができるのです。