マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ケレン味のなさが織り成すケレン味のこと

 織豊期に起こった本能寺の変には、

 ――ケレン味のなさに潜む現実の凄み

 が感じられる――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――ケレン味

 は、

 ――外連味

 と書きます。

 ――人目を惹くようにハッタリをきかせたり、人目を楽しませるための誤魔化しをしたりしている様子

 です。

 

 ――外連(けれん)

 は、もともとは、歌舞伎などで、俗受けを狙った奇抜な演出を指しました。

 

 そこから転じて――

 出色の面白み、予想外の魅力、非凡さなどを示すようになっています。

 

 芸事について、

 ――ケレン味がある。

 といえば――

 それは、ほぼ間違いなく、誉め言葉です。

 

 が――

 ひとたび芸事から離れれば、

 ――ケレン味がない。

 が誉め言葉になります。

 

 織田信長の人生についていえば――

 そこにケレン味はありません。

 

 織田信長の人生は、基本的には、現実の積み重ねです。

 後世の俗受けを狙って、あのような波乱万丈の人生を送ったわけではなかったはずです。

 

 にもかかわらず――

 後世の僕らは――

 そこにケレン味を見出そうとする――

 

 とりわけ――

 きのうの『道草日記』で述べた本能寺の変に感じられる、

 ――ケレン味のなさに潜む現実の凄み

 というのは――

 いいかえれば、

 ――ケレン味のなさが織り成すケレン味

 と、いえます。

 

 織田信長の人生は、本能寺の変の幕切れを含め、現代の歴史物や映画やTVドラマで繰り返し扱われています。

 

 なぜか――

 

 織田信長の人生がケレン味で溢れているように感じられるからです。

 

 しばしば、

 ――歴史の綾

 と、いいます。

 

 ここでいう「綾」とは、

 ――複雑かつ深層的な事情、単純かつ表層的な事象としては現れない背景的な事情

 くらいの意味です。

 

 それは――

 要するに、

 ――ケレン味のなさが織り成すケレン味のこと

 です。