――汎憂受容(はんゆうじゅよう)
の発想について――
きのうの『道草日記』で述べました。
この発想は――
個体の次元における、
――汎症受忍(はんしょうじゅにん)
の発想を――
生態の次元へ移し変えたものです。
――汎症受忍
というのは――
5月15日の『道草日記』で述べたように、
――あらゆる病気の症状の原因を受け入れ、それら症状を耐え忍びながら、いかに生涯を楽しんでいくか。
ということです。
一方、
――汎憂受容
というのは、
――あらゆる浮世の内憂の原因を受け入れ、それら内憂を認め容(い)れながら、いかに世間を楽しんでいくか。
ということです。
その「原因」というのは、要するに、
――自我が互いに独立をしている複数の個体が存在をしていること
です。
5月19日の『道草日記』で述べたように、
――たった1つの自我から構成をされる社会には、一切の社会内問題が生じえない。
と考えられます。
つまり、
――汎憂受容
というのは――
別のいい方をすれば、
――どのようにして浮世の内憂と共存をしていくか。
ということなのです。
5月15日の『道草日記』で、
――汎症受忍
について述べたことに準(なぞら)えれば、
――あらゆる浮世の内憂の原因を根本から取り除くには、結局は、単数の自我で構成をされる生態を作り上げることが必要である。が、自我の統一は容易ではない。可能かどうかも、わからない。仮に、可能であったとして、自我の統一が自分たちにとって本当に意義のあることかは、わからない。
というのが、
――汎憂受容
の発想です。
あるいは、
――「単数の自我で構成をされる生態を作り上げる」といったことに全力を傾けるのではなく、もっと他のことに注力をするのがよい。
という発想です。