マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ヴェサリウスとハーヴィーと

 17世紀序盤に活動をしたイギリスの医師・生理学者ウィリアム・ハーヴィー(William Harvey)が「血液循環」説を唱えた際に――

 その主な根拠としたのは、次の3つの知見、

 

 1)心臓の内腔の右半分と左半分とを繋ぐ小さな孔は、実は存在をしていない。

 2)心臓や静脈の内腔には弁のような構造物があり、血液を一方向へ流している。

 3)心臓から大動脈へ拍出をされる血液の重さは 、1 日当たり、体重の約 100 倍である。

 

 であった――

 ということ、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 これら3つの知見は、ハーヴィーが「血液循環」説を打ち立てるのに、すべて必要でしたが――

 きのうの『道草日記』で述べたように――

 1)は、紀元2世紀ギリシャ・ローマの医師・医学者アエリウス・ガレノス(Aelius Galenus)の否定であり――

 2)は、16~17世紀のイタリアで活動をした医師・解剖学者ジェローラモ・ファブリツィオ(Girolamo Fabrizio)の継承であることを考えますと――

 ハーヴィーの創造性を最も色濃く映し出しているのは 3)である――

 といえるでしょう。

 

 ハーヴィーは、なぜ、3)の知見に到達をしえたのか――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 それだけの資質がハーヴィーに備わっていたからに違いないのですが――

 それだけでは十分ではなかったでしょう。

 

 僕は、

 ――ファブリカ(fabrica)

 の影響が必須であったと感じます。

 

 ――ファブリカ

 というのは――

 16世紀のブリュッセル生まれの医師・解剖学者アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius)が残した人体解剖図版集のことです。

 

 あの、革新的に詳しくて正しくて、しかも圧倒的に美しい図版をみて――

 ハーヴィーは、人の心臓を通り抜ける血液の量を現実的に見積もることができたのではないか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 

 ヴェサリウスの『ファブリカ』を――

 ハーヴィーが、どれほど強く意識に留めていたのか――

 

 それは――

 僕には、よくわかりません。

 

 が――

 記録からわかることは――

 ヴェサリウスは、イタリアの名門パドヴァ(Padova)大学の解剖学・外科学の教授職に就いていて――

 その同じ教授職の三代後に就いたのが、ハーヴィーの師匠であるファブリツィオであった――

 という史実です。

 

 ヴェサリウスとハーヴィーとの間には約 100 年の時代のズレはあるのですが――

 2人は同じ大学の同じ講座で交錯をしているのです。

 

 ハーヴィーが、ヴェサリウスの残した土壌――写実的な絵画に基づき、人の体の形態や機能を現実的に考えていく土壌――に深く根差していたことは、ほぼ間違いないでしょう。