マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ガレノスとヴェサリウスと――

 自然科学という営みは、

 ――実験や観察によって仮説の妥当性を見定め、新たな知見を得る。

 という点に本質があります。

 

 その際に――

 できることなら、観察よりも実験を行いたい――観察では、自然に介入ができないために、得られる知見に限界があるからです。

 

 ところで――

 

 ……

 

 ……

 

 ――解剖

 というのは、実験ではなくて、観察なのですよね。

 

 つまり、

 ――解剖

 によって、

 ――体の機能

 をみるのには限界がある――

 

 が、

 ――体の形態

 をみるのには申し分がない――

 

 ――解剖

 は観察なので――

 当然です。

 

 ……

 

 ……

 

 きのうの『道草日記』で、

 ――紀元2世紀ギリシャ・ローマの医師・医学者アエリウス・ガレノス(Aelius Galenus)が本当にやりたかったことは、動物実験でも人体解剖でもなく、人体実験ではなかったか。

 と述べたのは――

 つまり、

 ――ガレノスは観察よりも実験に傾倒をしていたのではないか。

 という憶測によります。

 

 冒頭で述べた通り――

 自然科学的な発想に立てば――

 観察よりも実験のほうが動機付けは容易です。

 

 観察よりも実験のほうが、より踏み込んだ知見が得られやすいからです。

 

 よって、

 ――体の機能

 について、より踏み込んだ知見を得たいなら――

 観察よりも実験に傾倒をするのは当たり前です。

 

 この意味において――

 ガレノスの活動は、どこまでも自然科学的でした。

 

 ところが――

 16世紀のブリュッセル生まれの医師・解剖学者アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalisu)は、少し違っています。

 

 ヴェサリウスは、

 ――体の機能

 をみることに拘りませんでした。

 

 ガレノスが残した“体の機能”に関する知見に――

 ヴェサリウスは、ほとんど異を唱えていません。

 

 (どうでもよかったんだろう)

 と、僕は想像をしています。

 

 ヴェサリウスが拘ったのは、

 ――体の形態

 でした。

 

 ガレノスとは好対照です。

 

 つまり、

 ――ヴェサリウスは実験よりも観察に傾倒をしていた。

 ということです。

 

 その意味で――

 ヴェサリウスの活動は、ガレノスと比べ、あまり自然科学的ではありません。

 

 ヴェサリウスは、自然科学者というよりは、芸術家であったように思います。

 

 その芸術家的な気質がヴェサリウスを動機付けの根幹にあったように――

 僕には思えます。

 

 そして――

 その気質が強烈であったからこそ――

 あの人体解剖図版集『ファブリカ(fabrica)』を世に送り出せたに違いない――

 そう思います。