失敗は、
再起可能である“利益獲得の失敗”
再起可能である“損害回避の失敗”
再起不能である“利益獲得の失敗”
再起不能である“損害回避の失敗”
というように整理ができ――
それぞれの失敗で何が問題かというと、
再起可能である“利益獲得の失敗” → 無為
再起可能である“損害回避の失敗” → 無策
再起不能である“利益獲得の失敗” → 看過
再起不能である“損害回避の失敗” → 看過
と考えられる――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
要するに、
――看過が許される場合の失敗は「無為・無策」で済まされうるが、看過が許されない場合の失敗は本当の意味での失敗である。
ということです。
このように考えると――
当然のことながら、
――どんな看過が許され、どんな看過が許されないのか。
ということが気になりますね。
様々に考えることはできますが――
さしあたり、
――再起不能となりえない場合は看過が許され、再起不能となりうる場合は看過が許されない。
と考えるのが妥当でしょう。
つまり、
――再起不能性
が、
――看過
の可否を決める――
ということです。
では――
その、
――再起不能性
は、どのような定義がされうるのか――
……
……
7月20日の『道草日記』では、
――失われる人命の数の期待値が 1 以上
という基準を示しました。
その看過によって失われる人命の数の期待値が 1 以上であれば、
――再起不能性あり
と認め、1 未満であれば、
――再起不能性なし
と認める――
という提案です。
が――
もちろん――
このような基準は一例であり、絶対ではありません。
あくまでも、僕個人は、
(「失われる人命の数の期待値が 1」というのがいいんじゃないか)
と思う、というだけで――
他の人は、
――いや、「1」ではなく、「100」でいい。
というかもしれないし、
――いやいや、「0.01」にすべきだ。
というかもしれない――
人によっては、
――「失われる人命の数の期待値」ではなく、「失われる動植物の命の総量」がいい。
とか、
――「損なわれる生活の質の時間積分」がいい。
とかというかもしれません。
――再起不能性
の定義は様々に考えることができます。