藤原道長(ふじわらのみちなが)は、甥・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)に、ずいぶんと気を遣っていたようです。
――先年の左遷は私が決めたことではなく、帝がお決めになったことだ。
と、隆家本人を前に、直接の釈明をしていたらしいことは、きのうの『道草日記』で述べました。
それだけではありません。
寛弘元年(1004年)のことであるそうですから――
隆家 25 歳の頃です。
叔父・道長が自邸で酒宴を催しました。
隆家は、左遷をされてからというもの――
そうした遊興の場には顔を出さないようにしていたらしく――
そのときも参加はしていなかったのですが――
それをみて――
道長が、
――このような酒席に権中納言(隆家)がいないのは物足りない。
とこぼし、わざわざ隆家のもとへ使者を遣って隆家を呼び寄せたのです。
21世紀序盤の現代においても、そうですが――
酒席に遅れてやってきた人が場の雰囲気になじむのは、そう簡単ではありません。
このときも――
隆家が姿をみせると、座が白けました。
皆できあがっているのに、一人、素面の者が混じったのです。
しかも、その者は、道長の同腹の長兄・藤原道隆(ふじわらのみちたか)の息子であり、幼年期より、
――世中のさがなもの
と警戒をされていた人物でした。
もし、藤原道隆が存命であれば、宮中の殆どの廷臣たちの生殺与奪を握っていたに違いないのです。
おそらく――
その場にいた道長以外の全員が、思わず居住まいを正しました。
道長は、自分が招き寄せた甥のせいで座が白けてしまったのを察し、
――早く私たちと同じように服の紐を解いて着崩して、一緒に楽しく酒を飲もう。
と誘います。
が――
隆家にしてみたら――
そのハイテンションに、すぐにはついていけません。
左遷をされて以来、酒宴などの遊興の場には顔を出さないようにしてきたのに――
わざわざ道長が使者を遣(よこ)したものだから、仕方なく、やってきたのでした。
なかなか着崩そうとしない隆家をみて――
――では、私が着崩して差し上げよう。
といって隆家へ近寄ろうとします。
すると、隆家は怒り出します。
――お前たちに、そんなことまでされるほどに落ちぶれたわけではない。
藤原公信は、隆家の祖父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)と政権を争った藤原為光(ふじわらのためみつ)の息子の一人で――
あの花山(かざん)法皇(ほうおう)が在位中に寵愛をし、その急逝を嘆き悲しんだ妻の弟でした。
年齢も隆家より 2 歳ほど上で、
――誰がみても明らかに隆家より格下――
といえるような相手ではありませんでした。
それにもかかわらず――
隆家は、
――無礼者!
といって怒り出したのです。
――お前が無礼であろう。
と陰口を叩く者も、あったかもしれません。
その場を収めたのは道長でした。
――きょうは、そういう冗談はなしにしよう。ここは一つ私が着崩してやるとしよう。
と笑って――
実際に自ら隆家の服の紐を解いたといいます。
隆家は、
――そこまでして下さるなら、不足はありません。
と応じ――
以後、すっかりハイテンションになって――
酒宴の先になじもうとしたそうです。
道長が隆家に、かなり気を遣っていたことは――
ほぼ間違いないでしょう。