マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(6)

 藤原道長(ふじわらのみちなが)は、甥・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)に、ずいぶんと気を遣っていたようです。

 ――先年の左遷は私が決めたことではなく、帝がお決めになったことだ。

 と、隆家本人を前に、直接の釈明をしていたらしいことは、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 それだけではありません。

 

 寛弘元年(1004年)のことであるそうですから――

 隆家 25 歳の頃です。

 

 叔父・道長が自邸で酒宴を催しました。

 

 隆家は、左遷をされてからというもの――

 そうした遊興の場には顔を出さないようにしていたらしく――

 そのときも参加はしていなかったのですが――

 

 それをみて――

 道長が、

 ――このような酒席に権中納言(隆家)がいないのは物足りない。

 とこぼし、わざわざ隆家のもとへ使者を遣って隆家を呼び寄せたのです。

 

 21世紀序盤の現代においても、そうですが――

 酒席に遅れてやってきた人が場の雰囲気になじむのは、そう簡単ではありません。

 

 このときも――

 隆家が姿をみせると、座が白けました。

 

 皆できあがっているのに、一人、素面の者が混じったのです。

 しかも、その者は、道長の同腹の長兄・藤原道隆(ふじわらのみちたか)の息子であり、幼年期より、

 ――世中のさがなもの

 と警戒をされていた人物でした。

 もし、藤原道隆が存命であれば、宮中の殆どの廷臣たちの生殺与奪を握っていたに違いないのです。

 

 おそらく――

 その場にいた道長以外の全員が、思わず居住まいを正しました。

 

 道長は、自分が招き寄せた甥のせいで座が白けてしまったのを察し、

 ――早く私たちと同じように服の紐を解いて着崩して、一緒に楽しく酒を飲もう。

 と誘います。

 

 が――

 隆家にしてみたら――

 そのハイテンションに、すぐにはついていけません。

 

 左遷をされて以来、酒宴などの遊興の場には顔を出さないようにしてきたのに――

 わざわざ道長が使者を遣(よこ)したものだから、仕方なく、やってきたのでした。

 

 なかなか着崩そうとしない隆家をみて――

 藤原公信(ふじわらのきんのぶ)という者が、

 ――では、私が着崩して差し上げよう。

 といって隆家へ近寄ろうとします。

 

 すると、隆家は怒り出します。

 ――お前たちに、そんなことまでされるほどに落ちぶれたわけではない。

 

 藤原公信は、隆家の祖父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)と政権を争った藤原為光(ふじわらのためみつ)の息子の一人で――

 あの花山(かざん)法皇(ほうおう)が在位中に寵愛をし、その急逝を嘆き悲しんだ妻の弟でした。

 

 年齢も隆家より 2 歳ほど上で、

 ――誰がみても明らかに隆家より格下――

 といえるような相手ではありませんでした。

 

 それにもかかわらず――

 隆家は、

 ――無礼者!

 といって怒り出したのです。

 

 ――お前が無礼であろう。

 と陰口を叩く者も、あったかもしれません。

 

 その場を収めたのは道長でした。

 ――きょうは、そういう冗談はなしにしよう。ここは一つ私が着崩してやるとしよう。

 と笑って――

 実際に自ら隆家の服の紐を解いたといいます。

 

 隆家は、

 ――そこまでして下さるなら、不足はありません。

 と応じ――

 以後、すっかりハイテンションになって――

 酒宴の先になじもうとしたそうです。

 

 道長が隆家に、かなり気を遣っていたことは――

 ほぼ間違いないでしょう。