マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(17)

 平安中期の公卿・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が、叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)の自邸で催された酒宴に招かれた際に――

 隆家が、叔父・道長の前で、急に怒りだし、その後すぐに機嫌を直したのは――

 叔父・道長の真意を推し量る意図があったのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 隆家は、叔父・道長の何についての真意を推し量りたかったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく――

 隆家自身の処遇についてです。

 

 このとき――

 隆家は、地方の官職に左遷をされてから 8 年、許されて中央の官職に復帰をしてからは 6 年を経ていました。

 

 兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)は健在でしたが――

 天皇の正妻であった姉・定子(ていし)は、すでにありません。

 

 姉・定子が亡くなっていたので――

 兄・伊周が政権の首班となる可能性は皆無に近くなっていて――

 隆家自身も、政権の中枢で重きをなす可能性は、ほぼなくなっていました。

 

 そうした政局において――

 叔父・道長は、なぜ、わざわざ自分を自邸での酒宴に招いたのか――

 隆家には疑問であったはずです。

 

 道長にしてみたら、目にかけていた甥・隆家が不憫であったからに違いないのですが――

 隆家にしてみたら、まさか、そんなふうに叔父・道長が思ってくれているとは決めつけられません。

 

 ――いったい、どういうつもりだ?

 と隆家は考えたでしょう。

 

 そして――

 思いついたのが、

 ――これを機会に、ひとつ厄介事をふっかけてみよう。

 ということではなかったでしょうか。

 

 叔父・道長に何か厄介事をふっかけたときの、その対応をみれば――

 今後の自分の処遇をどのように考えているのか、その概略がわかる――

 

 自ら宴席に招いておきながら、粗略に扱うのであれば、いずれ自分は追い払われるであろう――ひょっとすると遠国へ配流となるかもしれない――

 多少の厄介事をふっかけても、寛大に接するのであれば、しばらくは京の都に留めおかれるに違いない――まだ自分に利用価値を見出しているのであろう――

 

 そして――

 結果は、

 ――しばらくは京の都に留めおかれるに違いない――

 であったわけです。

 

 もし、そのような読みが隆家の胸中に秘められていたのであれば――

 隆家は、あの宴席においても、冷静な果断さを十分に持ち合わせていたことになります。

 

 そのことは――

 15 ~ 16 年後の国難でみせた総司令官としての振る舞いにも符号をします。