平安中期の公卿・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が、叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)の自邸で催された酒宴に招かれた際に――
隆家が、叔父・道長の前で、急に怒りだし、その後すぐに機嫌を直したのは――
叔父・道長の真意を推し量る意図があったのではないか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
隆家は、叔父・道長の何についての真意を推し量りたかったのか――
……
……
おそらく――
隆家自身の処遇についてです。
このとき――
隆家は、地方の官職に左遷をされてから 8 年、許されて中央の官職に復帰をしてからは 6 年を経ていました。
兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)は健在でしたが――
天皇の正妻であった姉・定子(ていし)は、すでにありません。
姉・定子が亡くなっていたので――
兄・伊周が政権の首班となる可能性は皆無に近くなっていて――
隆家自身も、政権の中枢で重きをなす可能性は、ほぼなくなっていました。
そうした政局において――
叔父・道長は、なぜ、わざわざ自分を自邸での酒宴に招いたのか――
隆家には疑問であったはずです。
道長にしてみたら、目にかけていた甥・隆家が不憫であったからに違いないのですが――
隆家にしてみたら、まさか、そんなふうに叔父・道長が思ってくれているとは決めつけられません。
――いったい、どういうつもりだ?
と隆家は考えたでしょう。
そして――
思いついたのが、
――これを機会に、ひとつ厄介事をふっかけてみよう。
ということではなかったでしょうか。
叔父・道長に何か厄介事をふっかけたときの、その対応をみれば――
今後の自分の処遇をどのように考えているのか、その概略がわかる――
自ら宴席に招いておきながら、粗略に扱うのであれば、いずれ自分は追い払われるであろう――ひょっとすると遠国へ配流となるかもしれない――
多少の厄介事をふっかけても、寛大に接するのであれば、しばらくは京の都に留めおかれるに違いない――まだ自分に利用価値を見出しているのであろう――
そして――
結果は、
――しばらくは京の都に留めおかれるに違いない――
であったわけです。
もし、そのような読みが隆家の胸中に秘められていたのであれば――
隆家は、あの宴席においても、冷静な果断さを十分に持ち合わせていたことになります。
そのことは――
15 ~ 16 年後の国難でみせた総司令官としての振る舞いにも符号をします。