マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(21)

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)と、その叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)との相剋の根源にあったのは、

 ――政権の首班は、形式的に選ぶのがよいのか、実質的に選ぶのがよいのか。

 との問題意識ではなかったか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もう少し具体的に述べましょう。

 

 相剋の根源にあった問題意識というのは、要するに、

 ――藤原道隆(ふじわらのみちたか)が亡くなったときに、その後継者は嫡男の藤原伊周(ふじわらのこれちか)にするのがよいのか、他の誰かにするのがよいのか。

 という問題意識です。

 

 隆家にとって、道隆は父であり、伊周は同腹の兄でした。

 道長にとって、道隆は同腹の兄であり、伊周は甥でした。

 

 道隆は、容姿に優れながら、気さくであり、かつ繊細な心配りもできる好人物であったと伝えられています。

 ただし、酒にだらしのないところがあり、政権の首班として適任であったかどうかは疑問が残りました。

 父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)から譲られなければ、おそらくは政権の首班の座に就くことのなかった人物です。

 

 伊周については、8月20日や8月26日の『道草日記』で述べた通りです。

 父・道隆に似て容姿に優れ、かつ当代随一と目された学識や文才を備えながらも、些事に拘り、細かな規則を人々に押し付けるなど、人望に乏しい人物でした。

 父・道隆よりも、さらに政権の首班には向いていなかったといえます。

 

 こうした道隆評や伊周評は、隆家も道長も、おそらくは共有をしていたでしょう。

 

 にもかかわらず――

 二人の結論は違ったのです。

 

 隆家は、

 ――たとえ向いていなくても、兄・伊周を政権の首班に据えて、皆で補佐をしていくのがよい。

 と考え――

 道長は、

 ――甥・伊周は明らかに政権の首班に向いていないから、他の者が政権の首班となるのがよい。

 と考えた――

 

 つまり――

 隆家は、骨肉の政争の予防を第一に考え――

 道長は、政権の首班の資質を第一に考えた――

 ということではなかったか――

 と思うのです。