藤原隆家(ふじわらのたかいえ)と、その叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)との相剋の根源にあったのは、
――政権の首班は、形式的に選ぶのがよいのか、実質的に選ぶのがよいのか。
との問題意識ではなかったか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
もう少し具体的に述べましょう。
相剋の根源にあった問題意識というのは、要するに、
――藤原道隆(ふじわらのみちたか)が亡くなったときに、その後継者は嫡男の藤原伊周(ふじわらのこれちか)にするのがよいのか、他の誰かにするのがよいのか。
という問題意識です。
隆家にとって、道隆は父であり、伊周は同腹の兄でした。
道長にとって、道隆は同腹の兄であり、伊周は甥でした。
道隆は、容姿に優れながら、気さくであり、かつ繊細な心配りもできる好人物であったと伝えられています。
ただし、酒にだらしのないところがあり、政権の首班として適任であったかどうかは疑問が残りました。
父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)から譲られなければ、おそらくは政権の首班の座に就くことのなかった人物です。
伊周については、8月20日や8月26日の『道草日記』で述べた通りです。
父・道隆に似て容姿に優れ、かつ当代随一と目された学識や文才を備えながらも、些事に拘り、細かな規則を人々に押し付けるなど、人望に乏しい人物でした。
父・道隆よりも、さらに政権の首班には向いていなかったといえます。
こうした道隆評や伊周評は、隆家も道長も、おそらくは共有をしていたでしょう。
にもかかわらず――
二人の結論は違ったのです。
隆家は、
――たとえ向いていなくても、兄・伊周を政権の首班に据えて、皆で補佐をしていくのがよい。
と考え――
道長は、
――甥・伊周は明らかに政権の首班に向いていないから、他の者が政権の首班となるのがよい。
と考えた――
つまり――
隆家は、骨肉の政争の予防を第一に考え――
道長は、政権の首班の資質を第一に考えた――
ということではなかったか――
と思うのです。