藤原道長(ふじわらのみちなが)が政権の首班の資質を第一に考えていたことは、論をまたないであろう――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
では――
藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が骨肉の政争の予防を第一に考えていたことは、どうでしょうか。
……
……
これには異論があるでしょう。
8月27日の『道草日記』でも触れたように――
隆家には、兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)との共謀で叔父・道長の暗殺を試みたらしい、との噂が立ちました。
この噂が真実であれば――
隆家も骨肉の政争をとくに厭わなかったことになります。
が――
僕は――
この噂は、
(たぶん真実を反映したものではない)
とみています
兄・伊周が叔父・道長の暗殺を試みたことは事実でしょう。
そして、そのために隆家に共謀を持ちかけたことも事実でしょう。
が――
隆家は共謀に応じなかった、と――
僕は考えています。
8月27日の『道草日記』でも述べた通り――
――道長を殺す!
と息巻く兄・伊周に対し、
――今は時勢が悪い。
と諭し、暴挙・暴走を控えさせた――
というのが真相ではなかったか、と――
僕は想像をしているのです。
その根拠は――
叔父・道長が政権の首班の座を、その嫡男である従弟・藤原頼通(ふじわらのよりみち)へ譲り始めた際に――
とくに異論を挟まなかったらしい――
ということに求められます。
道長から頼通への権力の移譲は、寛仁元年(1017年)から少なくとも 2 年くらいをかけ、わりと緩徐に行われたようなのですが――
8月31日の『道草日記』で述べたように――
ちょうど寛仁3年(1019年)の刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)の頃に、京の都で、
――権力の空白
があったらしいことを考えると――
道長から頼通への権力の移譲は、決して順風満帆ではなかったといえます。
この頃――
隆家は、刀伊の入寇で武名を上げていましたから、
――あの御方を右大臣などのお迎えし、世の中を治めていただきたい。
との声が――
京の都の少なくとも一部からは上がっていたはずなのです。
裏を返すと――
それだけ若い頼通が頼りなく感じられていたということです。
この頃の頼通は、まだ三十路前でした。
四十路に入っていて、しかも刀伊の入寇で名声を得ていた隆家にとって――
政権を奪う絶好のチャンスであったはずです。
が――
隆家は、あえて宮廷への出仕を控え、自らの存在感を消し去り――
道長から頼通への権力の移譲に、あえて横車を押さなかったのです。
隆家が、骨肉の政争の予防を第一に考えていなければ――
この頃の“権力の空白”を突かなかったわけがない、と――
僕は思います。