マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(23)

 藤原道長(ふじわらのみちなが)が政権の首班の資質を第一に考えていたことは、論をまたないであろう――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では――

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が骨肉の政争の予防を第一に考えていたことは、どうでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 これには異論があるでしょう。

 

 8月27日の『道草日記』でも触れたように――

 隆家には、兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)との共謀で叔父・道長の暗殺を試みたらしい、との噂が立ちました。

 

 この噂が真実であれば――

 隆家も骨肉の政争をとくに厭わなかったことになります。

 

 が――

 僕は――

 この噂は、

 (たぶん真実を反映したものではない)

 とみています

 

 兄・伊周が叔父・道長の暗殺を試みたことは事実でしょう。

 そして、そのために隆家に共謀を持ちかけたことも事実でしょう。

 

 が――

 隆家は共謀に応じなかった、と――

 僕は考えています。

 

 8月27日の『道草日記』でも述べた通り――

 ――道長を殺す!

 と息巻く兄・伊周に対し、

 ――今は時勢が悪い。

 と諭し、暴挙・暴走を控えさせた――

 というのが真相ではなかったか、と――

 僕は想像をしているのです。

 

 その根拠は――

 叔父・道長が政権の首班の座を、その嫡男である従弟・藤原頼通(ふじわらのよりみち)へ譲り始めた際に――

 とくに異論を挟まなかったらしい――

 ということに求められます。

 

 道長から頼通への権力の移譲は、寛仁元年(1017年)から少なくとも 2 年くらいをかけ、わりと緩徐に行われたようなのですが――

 8月31日の『道草日記』で述べたように――

 ちょうど寛仁3年(1019年)の刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)の頃に、京の都で、

 ――権力の空白

 があったらしいことを考えると――

 道長から頼通への権力の移譲は、決して順風満帆ではなかったといえます。

 

 この頃――

 隆家は、刀伊の入寇で武名を上げていましたから、

 ――あの御方を右大臣などのお迎えし、世の中を治めていただきたい。

 との声が――

 京の都の少なくとも一部からは上がっていたはずなのです。

 

 裏を返すと――

 それだけ若い頼通が頼りなく感じられていたということです。

 

 この頃の頼通は、まだ三十路前でした。

 

 四十路に入っていて、しかも刀伊の入寇で名声を得ていた隆家にとって――

 政権を奪う絶好のチャンスであったはずです。

 

 が――

 隆家は、あえて宮廷への出仕を控え、自らの存在感を消し去り――

 道長から頼通への権力の移譲に、あえて横車を押さなかったのです。

 

 隆家が、骨肉の政争の予防を第一に考えていなければ――

 この頃の“権力の空白”を突かなかったわけがない、と――

 僕は思います。