藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、自分の従者が叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)の従者を殺めた際に、巧みな事後処理をすることで、叔父・道長の遺恨が及ばないようにしたはずである――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
隆家は――
後年の刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)で、これ以上はないくらいに果断な対応をとったように――
突然の想定外の苦境に陥ったときの切り抜け方が、抜群に巧かったようです。
その萌芽は――
随筆『枕草子』の一節からも読みとれます。
おそらくは――
隆家が従者に花山(かざん)法皇(ほうおう)へ矢を射かけさせる 1 ~ 2 年前のことです。
隆家は 15 ~ 16 歳でした。
隆家は、天皇の正妻になっていた姉・定子(ていし)のもとを訪ねます。
そして、
――素晴らしい扇の骨が見つかりました。その骨に張りつけるのに見合うだけの素晴らしい紙を探しているのです。
といいます。
姉・定子が、
――それは、どんな骨なのですか。
と問うと――
隆家は、
――それは、もう大変に素晴らしい骨です。「こんな骨は見たことがない」と皆が申しております。
と答えました。
まったく要領を得ない返答であったので――
姉・定子は、おそらく、
――上等な紙が欲しいと、ねだっているのか。
と直感をしました。
その直感に一早く気づいたのが、『枕草子』の筆者・清少納言であったようで――
隆家の「こんな骨はみたことがない」という言葉を取り上げて、
――そういうことなら、それは扇の骨ではなくて、海月(くらげ)の骨ですね。
と口を挟みます。
誰もみたことがない骨なら、それは骨がないことが知られている海月の骨のようなものである――
と婉曲に指摘をしたのです。
揶揄をしたといってもよいでしょう。
清少納言は当時、隆家の姉・定子の傍に仕えていました。
隆家より 13 歳ほど年上です。
その姉の侍女に揶揄をされ――
隆家は、不機嫌になっても、おかしくはなかったのですが――
その言葉を受け、
――それは隆家が申したことにしよう。
と笑ったそうです。
上等な紙をねだっていると暗に認めた上で、姉の侍女の揶揄に笑顔で応じて受け流すのは――
そんなに簡単ではありません。
少なくとも、かの清少納言と同じくらいにユーモアの感覚があって機知に優れていたといえます。