マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「虫愛づる姫君」が「いかにも古典らしい」といえる2つの理由

 短編物語集『堤(つつみ)中納言物語』の一編、

 ――虫愛づる姫君

 は、

 ――人の一生の時間では収まらない問題

 という観点から、

 ――いかにも古典らしい。

 といえることを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 どの点が、

 ――いかにも古典らしい。

 といえるのか――

 

 ……

 

 ……

 

 少なくとも2つあります。

 

 1つは、

 ――同時代の慣習や通念に非合理性を見出したときに、人は、どのように対処をするのがよいのか。

 という問題の提起です。

 

 ――虫愛づる姫君

 の主人公は、同時代の貴族階級の若い女性が、父親の邸宅の一角に閉じこもって自然と直に触れ合うこともせず、ただ観念的に蝶の美しさなどを思い描く様子に非合理性を見出しています。

 

 そして――

 その非合理性をできるだけ受け入れないで生きていくという対処を選ぶのですが――

 山野を自由に駆けまわれない現実は、いかんともしがたく――

 例えば、父親が作り物と見破った蛇を本物と思い込んでしまいます。

 

 また――

 自身の姿を、同じ貴族階級とはいえ、見ず知らずの若い男性にみられてしまう――

 このことを、虫好きの姫自身は、そんなには気にしないのですが――

 姫自身の思いとは裏腹に、当時の貴族階級では一大スキャンダルとみなされる事件ですから――

 以後、他の貴族階級の若い女性と同じようには扱われなくなったはずです。

 

 今、

 ――扱われなくなったはず――

 と述べました。

 

 実は――

 その後、虫好きの姫が、貴族階級の若い女性として、どのように遇されるに至ったかについては、『堤中納言物語』には描かれていません。

 

 このことが――

 この短編物語集の一編を、

 ――いかにも古典らしい。

 と思わせる2つめの理由を導きます。

 

 その2つめの理由とは、

 ――この「虫愛づる姫君」の物語をどのように盛り上げて、どのように終わらせるのがよいのか。

 という問題の提起です。

 

 ――虫愛づる姫君

 の末尾には、

 ――二の巻にあるべし。

 と書き添えられています。

 

 つまり――

 この虫好きの姫が、その後どのような人生を送ったかに注意を向けるように、読者へ呼びかけているのです。

 

 それにもかかわらず、

 ――二の巻

 は現存をしません。

 

 現代へ伝えられる過程で失われた、とも考えられますが――

 僕は、

 (そもそも書かれていないのではないか)

 と考えています。

 

 なぜか――

 

 この虫好きの姫の物語を、勢いよく盛り上げて、据わりよく終わらせるのは――

 そんなに簡単ではないからです。

 

 ――二の巻にあるべし

 というのは――

 当時の作者から後世の読者に向けて出されたメッセージではないか、と――

 僕は考えています。

 

 ――誰か、この物語の続きを考えてほしい。

 というメッセージです。