マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

虫好きの姫は、作者によって、どことなく突き放されている?

 短編物語集『堤(つつみ)中納言物語』の一編、

 ――虫愛づる姫君

 の末尾に、

 ――二の巻にあるべし。

 と書き添えられたのは――

 物語の展開が俄然スリリングになってきているので――

 どうしても、ここで終わらせるわけにはいかない――

 と考えた作者のメッセージではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 が――

 そのような解釈には反する解釈も示されています。

 

 ――この物語は、同時代にそぐわない風変わりな言動を押し通そうとする人たちへの風刺である。

 という解釈です。

 

 たしかに――

 この指摘に頷けるところはあります。

 

 というのは――

 作者の語り口が、

 ――虫好きの姫

 に対し、何となく優しくないようにも感じられるからです。

 

 どことなく突き放しているような――

 

 ……

 

 ……

 

 例えば――

 虫好きの姫が虫を可愛がっていることを述べているくだりは――

 その虫に好印象を感じさせるような筆致ではないのです。

 

 ――よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて――

 などといっている――現代語に訳せば、

 ――いろいろな虫の恐ろしそうなものを捕って集めて――

 といったところでしょうか。

 

 もちろん――

 それら虫のことを――

 虫好きの姫が、

 ――かは虫の、心深きさましたるこそ心にくけれ(毛虫が深い心を垣間みせている様子は奥ゆかしい)。

 と肯定的に述べている場面が描かれてはいるのですが――

 あくまでも虫好きの姫が発した言葉を直接話法で伝えているにすぎないのですね。

 

 つまり――

 虫好きの姫の“虫好き”の性質には、作者の自然観が全く反映をされていないようである――

 

 (どことなく突き放しているような――)

 と僕が感じるのは――

 こうした筆致が目立つからです。

 

 もし、作者が――

 この、

 ――虫愛づる姫君

 を風刺の目的で書いているのだとしたら――

 当然のことながら、主人公は作者によって徹底的に突き放されているはずです。

 

 実際に―― 

 その可能性は、

 (そんなに低くはない)

 と感じます。