マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

虫好きの姫のモデルになったであろう人物は名も生年もわからない

 平安後期の公卿・藤原宗輔(ふじわらのむねすけ)の娘が――

 短編物語集『堤(つつみ)中納言物語』の一編、

 ――虫愛づる姫君

 の主人公・虫好きの姫のモデルになっていると考えられるのは――

 藤原宗輔の娘の為人(ひととなり)というよりも、その父・藤原宗輔の為人に負うところが大きい――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 藤原宗輔には、

 ――蜂飼大臣(はちかいおとど

 の異名があることは、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 かなり特異な為人です。

 

 が――

 それだけではありません。

 

 この公卿は、たいそうな健脚であったそうです。

 平安京の貴族としては、実に異例なことに、自ら野山を駆け巡ったといわれています。

 

 また、自ら手足を動かし、菊や牡丹を美しく育てあげ――

 それらを主筋の鳥羽法皇や同僚の公卿たちへ贈ってもいるそうです。

 

 中国大陸から渡ってきた書物を読みこなし――

 また、この国の古くからの儀式や行事、作法、法令などにも精通をしていたそうです。

 

 かなりの教養人であったことでしょう。

 

 だからでしょうか――

 若くして天皇の側近に取り立てられたそうですが――

 

 その天皇が早死にをしたために――

 出世は遅れました。

 

 いわゆる上級貴族とみなされる公卿に列せられたのは、40代半ばのことです。

 

 出世は遅れましたが――

 しゃしゃり出ることなく、常に謙虚な言動に徹する性格であったようで――

 同時代の権力者たちには、ずいぶんと好かれたようです。

 

 数えで 80 歳となるまで、京の都の苛烈な権力闘争を生き延びて――

 ついに右大臣となり、やがて太政大臣へ昇り詰めました。

 

 ――政治には無頓着に振る舞っていた。

 との記録もあるようですが――

 最終的には、最高位の大臣へ昇進をしているので、政治家としての嗅覚は、なかなかに鋭かったに違いありません。

 

 そのような人物の娘が、虫好きの姫のモデルと考えられているのですね。

 

 ただし――

 

 娘本人については――

 それほど多くは伝わっていません。

 

 きのうの『道草日記』で述べた通り、

 ――音楽の演奏に優れていたために、鳥羽(とば)法皇(ほうおう)に望まれ、その御所へ男装をして赴き、演奏をした。

 ということ、および、

 ――稀代の音楽家として後世に名を遺す藤原師長(ふじわらのもろなが)という公卿に音楽を教えていた。

 ということの2点のみです。

 

 その名前は、もちろんのこと――

 父・藤原宗輔が何歳の時に生まれた子なのかさえ――

 伝わってはいないようです。