マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

知能は演繹も帰納も熟せ、本能は演繹のみ――

 ――「本能は知能の一部である」とするならば、ヒト以外の生物種にも知能があることは自明である。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――知能

 の定義を――

 これ以上ないくらいに広げてしまっていますね(笑

 

 定義を広げに広げて――

 いったい、どこまで広げようというのか――

 

 ……

 

 ……

 

 当然ながら――

 ただ広げるだけでは、定義の体は成しえません。

 

 その広がりのどこかに制限をかけなければ――

 

 では――

 その“制限”を、どこに、どんなふうに、かけるのか――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――知能

 の定義を次のように設えたいと思っています。

 

 ――営みや振る舞いに演繹や帰納の手続きが感じられること

 

 ……

 

 ……

 

 ここでいう、

 ――演繹

 とは、

 ――論理に基づき、より普遍的な前提から、より個別的な結論の集合を導くこと

 で、

 ――帰納

 とは、

 ――論理に基づき、より個別的な前提の集合から、より普遍的な結論を導くこと

 です。

 

 一般に、

 ――人の知能

 は、

 ――演繹

 も、

 ――帰納

 も円滑に熟(こな)せます――当然ですね。

 

 が、

 ――昆虫の知能

 は、どうでしょうか。

 

 ――昆虫の知能

 は、実質的には、

 ――昆虫の本能

 です。

 

 ――昆虫の本能

 は、

 ――演繹

 のみを熟し、

 ――帰納

 は熟せないように感じられます。

 

 例えば――

 ミツバチのダンスに目を着ければ――

 

 ミツバチが仲間たちに花の蜜の在りかを伝えられるのは――

 何らかの規則や手順――つまり、普遍的な前提――を生まれながらに備えていて、その備えに基づき、ダンスを踊っているからである――

 と感じられます。

 

 決して――

 仲間たちのダンスを繰り返しみて真似をして、何らかの経験や理解の集合――つまり、個別的な前提の集合――を蓄えていって、その蓄えに基づき、踊っているからである――

 とは感じられません。

 

 つまり、

 ――知能は演繹も帰納も熟すのであるが、知能の特殊な様態である本能は演繹しか熟せない。

 ということがいえるでしょう。

 

 ここで大切なのは――

 帰納はともかく、演繹ならば、

 ――知能

 も、

 ――本能

 も、ともに熟せる――

 ということです。

 

 それゆえに、

 ――本能は知能の一部である。

 といってよい――

 

 そのように――

 今の僕は考えています。