――人と人工知能とが「良好な関係」を保ち続ける。
というときの、
――「良好な関係」を保つ。
とは、
――人工知能が人にとって使い勝手のよい機械であり続ける。
ということである――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
そのような関係を保つには――
ごく簡単にいってしまえば――
――人工知能が中庸の性質を備える必要がある。
ということです。
ところで――
以上を踏まえると、
――中庸の性質を備えた人工知能は、本当の意味で、人にとって使い勝手がよい機械でありうるのか。
という疑問が、新たに生じます。
1月13日の『道草日記』で述べた通り――
――中庸
とは、
――意識的な凡庸
であり――
それゆえに――
1月25日の『道草日記』で述べた通り――
中庸を備えた人工知能は、いかなる主観にとっても、未来における任意の時点において、利益も損害も齎(もたら)さなかったり、あるいは、利益と損害とを互いに打ち消し合わせたりするのですが――
そのように――
利益と損害とを、
――プラスマイナス・ゼロ
にするような人工知能が――
はたして機械として真に有用でありうるのか――
というのは、大いに疑問です。
……
……
もちろん――
有用ではありえませんよね。
たしかに――
いかなる人工知能も、ある程度は中庸の側に寄っていないと、機械として役に立たないことは間違いないでしょう。
そのことは――
例えば、割り切れない割り算を延々と続ける計算機や、全ての情報を一遍に押し出してくる検索機能の問題を思い浮かべれば――
自明です。
とはいえ――
中庸を完璧に全うする人工知能というのは、人に損害を齎さない一方で、利益も齎さないわけで――
人に利益を齎さない機械は、ガラクタも同然といえます。