マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

北条氏のこと(5)

 歴史の教科書に誰を載せるかで――
 議論が巻き起こっています。

 たとえ歴史上、有名な人物でも、その歴史的意義を語りにくい場合には、歴史の教科書に載せるべきではない――
 という考え方があります。

 こうした観点でみるときに――
 鎌倉期の北条氏のなかで、歴史の教科書に載るべき人物は、限られてくるでしょう。

 最も載るべき人物は――
 元寇のときの執権であり、本家当主でもあった北条時宗でしょう。

 北条時宗は、この国で最初に、今日でいうところの「日本国」の概念を強く意識した人物ではなかったかと、いわれています。

 では――
 次に載るべきは人物は誰か――

 少なくとも――
 滅亡のときの本家当主・北条高時は、間違いないでしょう。

 北条高時の敗死を機に、時代は新たな転換期を迎えました。
 時代の転換期に言及するのが歴史の教科書の役割ですから、北条高時の名を載せないわけにはいきません。

 先週の『道草日記』で述べたように――
 もし、あえて「北条時代」という呼称を用いるならば――

 北条高時は、北条時代が終わったときの主役です。

 では――
 北条時代が始まったときの主役は誰か――

 北条時代は承久の乱で始まるのですから――
 当然、承久の乱のときの執権・北条義時であるというべきところですが――

 きのうの『道草日記』でも述べたように――
 承久の乱のときの義時は齢59――

 もちろん――
 鎌倉幕府の事実上の最高指導者としての役割は果たしたと思いますが――
 心身ともに年齢的な制限がきつかったはずで、

 ――主役

 と呼ぶには、少々違和感があります。

 僕は、
(北条時代が始まったときの主役は、北条泰時であろう)
 とみています。

 何といっても――
 承久の乱親北条派の大軍を率いて京へ攻め上ったのは――
 北条泰時であって、北条義時ではないのです。

 よって――
 北条高時が歴史の教科書に載るのが当然であるように――
 北条泰時が歴史の教科書に載るのも当然である――
 と考えています。

 北条泰時には――
 もう一つ、歴史の教科書に載りやすい事実があります。

 それは――
 鎌倉幕府3代・執権として、


 の制定を主導したことです。

 御成敗式目は、武家武家のために制定した法律のようなものと解釈できます。

 御成敗式目の制定をもって――
 この国の政権の中枢が、天皇家や公家の主導する京の朝廷から離れ、武家の主導する鎌倉幕府へ移っていったことが、象徴的に語られます。

 いってみれば――
 北条泰時は――
 承久の乱で、武人として、朝廷の権威を奪い――
 御成敗式目で、文人として、朝廷の権威を奪ったのです。