マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

後鳥羽上皇のこと(7)

 後鳥羽上皇は――
 承久の乱が起こるまでの鎌倉幕府が、なぜ東日本の農地等の管理者(在地領主)たちに支持されていたのかを、よく理解できていなかったようである――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 なぜ東日本の農地等の管理者たちが当時の鎌倉幕府を支持していたのかについて――

 ここで――
 少し丁寧に述べましょう。

 鍵となるのは、

 ――「国」という名の虚構がもつ役割

 です。

 1月30日の『道草日記』でも述べたように――

 国の役割は――
 今も昔も――
 少なくとも第一義としては、

 ――民の生命や財産を守ること

 です。

 承久の乱が起こった頃についていえば――
 「財産」といえば、農地を中心とする土地のことでした。
 
 この土地を巡って――
 とくに東日本では、争いが絶えなかったと考えられています。

 その争いのために――
 生命が失われることも、多々あったでしょう。

 そうした深刻な争いを裁き――
 裁きを受け入れない者には、

 ――武力で制裁を加える。

 と宣言をしたのが――
 源頼朝です。

 武力を背景とする裁きであったことから――
 多くの農地等の管理者たちが、源頼朝を支持しました。

 源頼朝は――
 たんに宣言をするのではなく――
 実際に、裁きに従わない者たちを武力で排除していったので――

 源頼朝への支持は――
 しだいに厚くなっていったと考えられます。

 当然でしょう。

 土地を巡って命のやりとりをするような暮らしに疲弊しない人など――
 いないはずです。

 源頼朝の宣言は――
 鎌倉幕府の後継者たちによって引き継がれていきました。

 承久の乱が起こった頃には――
 実質的には、北条義時によって、引き継がれていました。

 よって――
 当時の鎌倉幕府は――
 政権としては、中途半端でお粗末であったにも関わらず――

 少なくとも東日本の農地等の管理者たちの多くから――
 支持され続けていたのです。

 一方、

 ――京の朝廷は、鎌倉の幕府ほどにはやってくれない。

 ということを――
 当時の農地等の管理者たちの多くがわかっていました。

 争いに裁きを下すくらいはしても――
 その裁きに従わない者たちを武力で排除することまでは、してくれない――

 つまり――
 京の朝廷は、何となく信頼されていなかったのです。

 ……

 ……

 こうした人心の実相に――
 後鳥羽上皇は気づけなかったと思います。

 もし――
 気づけていたら――

 承久の乱を起こしたりせず――
 もっと政治的に効果の高い手を打っていたでしょう。

 つまり、

 ――北条義時を排除せよ!

 との命令を出す代わりに、

 ――今後は、私も土地の争いの裁きに乗りだし、従わない者たちは武力で排除する。

 と宣言をして――
 鎌倉幕府の弱体化や自壊を狙えばよかったのです。

 それを可能とする武力が――
 後鳥羽上皇には、ありました。

 天皇家の当主として――
 自前の財源や軍隊を調える政治的手腕があったことは――
 3日前の『道草日記』で述べた通りです。

 その武力を――
 実際の後鳥羽上皇は――
 鎌倉幕府の打倒に用いてしまったのです。

 ……

 ……

 ――そういうことじゃないんですよ。

 という――
 当時の人々の嘆き声が――

 何となく聞こえてきそうです。